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明智家 その2

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美濃東部で勢力を誇っていた遠山氏。
遠山氏というと、思い出すのは「遊び人の金さん」こと、遠山左衛門少尉景元。
江戸後期の実在の名判官で、「耀怪」と言われた鳥居耀蔵に対抗し、徹底して民衆の側に立った人物である。
この遠山氏は、美濃の遠山氏の本家では無く、傍流の明智遠山氏で、武田家の侵略で拠点を失い、浪人して相模小田原に流れ、北條家臣になったと言われていた。
最近、伊勢宗瑞(北條早雲)の研究の結果、どうも、明智遠山家の遠山直景という人物が幕府の奉公衆をしており、伊勢宗瑞と共に、駿河に向かったことがわかったらしい。
つまり、伊勢宗瑞の初期の家臣の一人であったということである。

本家の岩村遠山家は、斎藤氏が織田家に滅ぼされた後、織田信長の叔母(信長より年下)のおつやの方という女性が嫁入りしている。
おつやの方の夫、遠山景任が家督を継いだ頃、遠山家は内紛が激化しており、斎藤家からは独立した関係になっていた。
織田家が美濃を制圧すると、遠山家は織田家に属し、対武田の最前線に位置することになった。
当初は、織田信長は武田家とは友好な関係を結んでいたし、遠山景任自身も、かなり勇猛な将軍に育っており、武田家が侵攻してくることは無かった。
武田家が、足利義昭の要請で信長包囲網に参加し、三方が原の戦いの頃には、関係も悪化し、秋山虎繁を大将とする侵攻軍を差し向えられていた。
遠山家の最大の危機を前にして、遠山景任は病死してしまう。
遠山景任とおつやの方には子が無く、遠山家は、織田信長の子信勝が継いでいたのだが、未だに幼少だった。
この時、降伏交渉に来た秋山虎繁に、おつやの方は一目惚れしてしまう。
おつやの方は、あっさり降伏すると、秋山虎繁の元に再嫁し、信長の子信勝を武田信玄の元に送ってしまう。
ところが、武田信玄はインフルエンザであっさり病死。
その後ミリタリーバランスは織田家に傾き、岩村城は織田軍により陥落。
おつやの方、秋山虎繁共に殺害されたのだった。


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# by kazwak1 | 2020-07-16 20:54 | 東海  

明智家 その1

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今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は、明智光秀の生涯を描こうとした作品である。
残念ながら、公開前に、帰蝶役の沢尻エリカ被告が、麻薬所持で逮捕され、代役を立てたものの、中国武漢から感染拡大した武漢肺炎ウイルスの影響で、撮影続行が不可になり、長期の中断を余儀なくされている。

少し前まで、この明智光秀という人物について、詳しいことがほとんどわかっていなかった。
そもそも、明智家が土岐一族ということも自称にすぎないと言われて、未だに明智光秀の父が誰かについてすら、しっかりとした記録が無いらしい。

本能寺の変の後、天下人になった羽柴秀吉は、織田信長を本流とし、織田信長と自分に刃向った者の資料を消したらしい。
さらに徳川家康も、織田信長、羽柴秀吉を本流にし、同様のことを行っているらしい。
戦国期の土岐家の資料が異常に少ないのもそのせいらしく、特に明智光秀の資料は、極めて少ないらしい。
だが、家臣たちや、関係者の中には、こっそりと家宝として書状を残していた家があり、そういった家の倉から、非常に貴重な1次資料が発掘されてきている。
その結果、今までは、全く不明とされていた、織田家に仕えるまでの明智光秀のことが、徐々に判明しはじめているらしい。


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# by kazwak1 | 2020-06-01 14:39 | 東海  

上杉家・長尾家 その14〆

上杉家・長尾家 その14〆_b0197267_13534294.png
長かった上杉家と長尾家の話も今回で最後である。
江戸期の上杉家というと、非常に有名なのは、上杉治憲(鷹山)という人物である。
実は、この上杉鷹山、上杉景勝の男系の男子ではない。
そもそも、上杉景勝の系統は、孫の綱勝の代で途絶えてしまっている。
その際は、叔母の嫁ぎ先の吉良義央の長男を養子に迎え、綱憲と名乗らせ対応している。
上杉綱憲の子、吉憲には、4人の子がおり、一人は畠山家を継いだ為、3人が次々に継いだのだが、3人とも後継者を作れなかった。
結局、近親にはもはや男児がおらず、吉憲の妹豊姫の娘の子である上杉鷹山が引っ張ってこられた次第である。

なぜこんなことになっているかというと、夭折といわれる、未成人の死が異常に多かったから。
その原因の多くは、病死、特に乳幼児の病死が圧倒的に多かった。
一姫二太郎と、最初の子は頑丈な女の子、虚弱な男の子は2人目以降なんていう格言があったり、七五三を祝うのは、そもそも3歳、5歳、7歳を迎えられずに亡くなる子が圧倒的に多かった事を物語っていたりする。
明治天皇の子息を見ると、夭折と書かれた子がかなり多く、皇室ですらそんな状況なわけだから、一般人に至っては、推して知るべしだろう。

最近、コロナウイルスが蔓延して問題になっているが、そもそも病気の多くが、ウイルスや、寄生虫によってもたらされていることがわかったのは、本当につい最近のことだったりする。
明治以降、顕微鏡の技術が発達し、それまで死病とされた多くの病気の原因が次々に判明していった。
また、原因が判明すると同時に、ワクチンや特効薬が作成されていき、過去の死病のほとんどが、過去の病気となっていった。
さらに井戸水の使用を制限、消毒した水道水を利用するようにし、伝染病患者は完全に回復するまで隔離病棟に入れられたり、特定の国への渡航の際は、事前に予防接種を受けるなど、徹底した浄化の努力によって、現在の公衆衛生が得られたのである。

今回流行しているコロナウイルスは、実は、風邪と一括りにされている病気を引き起こしているウイルスの一種らしい。
そのコロナウイルスの変種が、今回、武漢で大流行し、世界に蔓延してしまった。
武漢で死者がバタバタ出ていると噂されてから、日本で報道されるまで、かなりの時間を要したのだが、日本の多くの人が思ったのではないだろうか。
流行り病で亡くなるとか、明治時代までの話なんじゃないの?と。

WHOや日本政府の対応を見ると、一つ思う事がある。
まさか、今まで、人類が無策で疫病を駆逐できてきたとでも思っているのか?と。
人口ウイルスの噂もあるが、今回の件で、多くの人が思い知ったことと思う。
流行り病は、過去の話などでは無いのだという事を。


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# by kazwak1 | 2020-05-16 21:27 | 東北  

上杉家・長尾家 その13

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平清盛が都で専横を振るうと、以仁王が各地の源氏勢力に、平清盛の追討を促した。
東国では、木曾の義仲、甲斐の武田信義、義光親子、信義の弟安田義定、鎌倉の頼朝が挙兵した。
木曾の義仲は、前2回の戦乱の中で、父義賢を頼朝の兄義平に殺害されている。
父が弑された時、まだ幼少だった義仲は、木曾の地方長官だった、中原兼遠に保護され育った。
その中で、中原兼遠の兄弟たちと懇意になっていった。
中原兼遠の子、今井兼平、樋口兼光は、根井親子と共に、有能な指揮官として、平家軍を撃ち破っていき、妹の巴は、妾となった。
平家を都から追い出すまでの義仲と木曾軍は、軍神そのものだった。
だが、そこからは政治の世界となり、政治関係に強い部下を招くことのできなかった義仲は、次第に没落。
最後は、頼朝の弟義経によって、宇治川で討たれてしまう。
その木曾軍は、今井兼平が常に戦場で義仲を支えており、留守を樋口兼光が守るという陣容だった。
義仲が戦死した後、今井兼平も、後を追うように討死しているのだが、樋口兼光は別働隊だった為、生き延びていた。
主君と兄の死を知った樋口兼光は、自分も後を追おうと、都に攻め込むのだが、説得され投稿。
蒲冠者範頼は、兄頼朝と共に、後白河院に樋口兼光の助命を願い出たのだが、後白河院は断固として許さず、樋口兼光は処刑されてしまうのだった。
兼光には光信という子がいたようで、父処刑後、越後に落ち延び、子孫は国人になっていったらしい。
その樋口光信の子孫が、上田で長尾家に仕え、家老待遇を得ていた。
上杉輝虎の時の当主が樋口兼豊で、子の兼続は、直江家の婿養子になっている。
それが、上杉家の管領とまで言われた直江兼続。

なお、宇治川で逃がされた巴は、後に十三人の合議の一人和田義盛に嫁ぎ、朝比奈義秀という子を設けている。
朝比奈義秀の子孫は、和田合戦の敗戦後駿河に移り住み、子孫は今川家で軍の重鎮となっている。
その一人朝比奈泰朝は、今川氏真に最後まで付き従った一人である。


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# by kazwak1 | 2020-04-08 16:35 | 甲信越  

上杉家・長尾家 その12

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上杉謙信没後、御館の乱と呼ばれる相続争いが発生している。
対立したのは、上杉謙信の姉、綾の長女を娶った、上杉景虎と、綾の次男、上杉景勝。
現在、原因は、実子の無い上杉謙信が、後継者を定めずに亡くなったからということになっている。
普通に考えれば、男系である上杉景勝が継ぐのは当たり前のように思え、家中を割るほどの大乱になるとは考えづらい。
こういう場合、後世に何かしらの歴史の書き換えがあった可能性が高いと思われる。
そう考える人も多いようで、実は、上杉謙信は、上杉景勝には越後上杉家、上杉景虎には関東管領職を継承さたという説を唱える人がいる。
上杉景虎陣営のトップが上杉憲政であるから、かなり可能性は高いと思う。
ただ、この時期の関東管領職を、上杉景勝が、家を割ってまで欲しがるとは到底思えず、かなり仲が悪かったとしても、謙信の意向を無視して、景虎を滅ぼす必要性を感じない。
まあ、潜在的な反乱や謀反の種を潰しておきたいという考えはあるだろうが。

私は、上杉謙信は、上杉景虎を後継に指名したのではないかと思っている。
上杉謙信はどうやら、父長尾為景の後継者を、姉の綾だと考えていたらしい。
そこで、綾の長女を上杉景虎に娶らせ、跡継ぎにした。
史料には、長女は畠山義春に嫁いだとされているのだが、それぞれの年齢を考えれば、ちょっと考えづらいだろう。
最終的に、畠山義春は上杉景勝陣営に組したので、後継の資格があるのに、上杉景勝を推した人物という扱いになり、長女を娶ったと歴史を改竄されたのだと思う。
この件からすると、上杉景勝の家督継承は、都合の悪い部分を後に改竄しまくった、極めてダーティーなものだった可能性が出てくる。
だとすると、そんなダーティーな上杉景勝を、なぜ多くの国人が支持したのかという疑問がでてくる。
恐らくだが、男の後継者がいるのに、女系で継承していくのは、問題があると考えた人物が多かったのではないかと思う。
上杉謙信に越後の未来を託したものの、結局は、ほとんど領土は増えなかったという不満が燻っており、上杉謙信の統治の後半では、その求心力もかなり翳っていたのではないだろうか。

今回は、最近言われている説で記載したいと思う。


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# by kazwak1 | 2020-03-02 14:09 | 甲信越