歌姫
2021-06-19T22:27:02+09:00
kazwak1
歴史とゲームを糧に隠居中
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黒田家 その7
http://kazwak.exblog.jp/30543113/
2021-05-31T23:17:00+09:00
2021-06-19T22:27:02+09:00
2021-06-02T00:52:30+09:00
kazwak1
中国
「軍師」というと、三国志の諸葛孔明のような、首脳部で作戦立案をする、現代戦の総参謀長のような人物を想像する。だが、戦国時代には、あまりそういう人物はおらず、大抵の場合、大隊長である侍大将が参謀を兼ねていて、その侍大将の意見を、総大将が取捨するといった体制だった。
日本の戦国時代でいう「軍師」は、「戦目付(軍監)」という役職の人を指す事が多い。
「戦目付」は、現代戦でいう、監察官と高級副官を兼ねたような職だろうか。
戦況を観察し、各隊の戦功を把握し、論功行賞をするという役柄、戦場での戦略に長ける者が多く、自然と中国の史劇で出てくる「軍師」に投影されていった。
毛利元就の志道広良、上杉謙信の宇佐美定満、北條氏康の多米元忠などが、このタイプだろう。
戦目付とは別に「軍配者」という役職の者がいることがある。
これも、いわゆる中国の史劇の「軍師」とは異なり、占い師のような役職だったらしい。
ただ、役柄的に、あまり縁起の悪いことを言う事は無く、良い結果を報告し、戦意を高める役職だった。
その為、軍学者や兵法学者が大名の参謀として、この軍配者になることもあり、作戦を立案することがあった。
ただ、こういった役職の者は非情に珍しく、今川義元の太原雪斎、大友義重の角隈石宗、流しの軍師白井胤冶と、それほど多くは無い。
武田信玄の軍師とされている、山本晴幸も恐らくはこのタイプなのだろう。
戦目付に黒田孝高は就くことが多いのだが、他の家の戦目付と違い、黒田孝高は大隊長のような激戦の中心に隊を置くことが多かった。
参謀のような智謀と、大隊長のような統率を兼ね備えた武将は、戦国時代には、極めて少なく、他には毛利元就くらいではないだろうか。
毛利元就は、異世界転生者のようなチート武将なので、それと同種の能力を持っていると思うと、いかに黒田孝高の能力が高いかが伺える。
<秀吉包囲網>
旧織田領の大半を接収した羽柴秀吉だったが、織田信長がそうであったように、畿内の統治者というのは、それだけで敵を作りやすい。
しかも、武家では無く、農民であれば、なおさらだっただろう。
この、出自の卑しさについては、最後の最後までついてまわることになる。
小牧長久手の戦いについて、相手が「神君」であることから、印象がかなり変えられている。
この小牧長久手の戦いに至るまでの経緯については、恐らく、そこまで違いは無いと思う。
羽柴秀吉は、こまごました敵をある程度まとめ上げて、一気に撃破するという大合戦に勝ち続けることで、そこから漏れた弱小勢力を降伏させ、一気に支配地域を広げていく方針をとっていた。
これまで、明智領、柴田領と瀧川領と織田信孝領と接収してきており、その都度、細川、筒井、丹羽、池田、蒲生、前田、佐々といった小領主を接収してきた。
そんな羽柴秀吉が次に目を付けたのが、徳川家康だった。
当時、徳川家康は、三河、遠江、駿河、信濃、甲斐と5か国の領主に急成長していた。
ただ、この時点で、徳川家を接収しようにも、その為の名分が無かった。
そこで目を付けたのが、織田信雄だった。
元々、徳川家康は、織田信長と盟約を結んでおり、織田家から独立した羽柴秀吉とは、何の友好も無いが、織田信長の後継者である織田信雄とは、盟約が続いることになっていた。
そこで、織田信雄を冷遇し、敵対した織田信雄に徳川家康を巻き込ませるという方針をとった。
少し計算違いだったのは、思った以上に織田信雄には外交力があり、徳川家康のみならず、紀伊の雑賀党、根来党といった傭兵集団や、四国の長宗我部元親、北陸越中の佐々成政も参戦したために、羽柴秀吉は3方面の作戦を強いられることになったのだった。
だが、織田信長が受けた包囲網外交と、今回が決定的に異なっていることがあった。
それは、中心人物が当事者であることだった。
その結果、各勢力の連携は一切取れず、所領の近かった織田信雄と、徳川家康だけが唯一連携が取れた。
<小牧長久手>
だが、せっかく連携が取れても、西部や北部への防御隊を差し引いても、羽柴軍の兵力は圧倒的で、戦況は、羽柴軍に一方的だった。
池田恒興が羽柴軍に参戦し、尾張北部の犬山城を開城すると、徳川軍は犬山城より北部に進軍することができず、小牧山に布陣するしかなく、織田信雄への援軍に駆けつけることができなくなった。
一方の羽柴軍も、森長可(森蘭丸の兄)隊が、徳川軍に敗退し、小牧山より南進ができなくなっていた。
その間にも、伊勢北部、美濃南部、美濃東部と、羽柴軍は順調に攻めよせていった。
はっきり言って、この時点で徳川軍としては完敗といって良い戦況だった。
なんとかして、一矢でも報いなければ、徳川家は一顧だにされず潰されてしまう。
羽柴軍にも、功名に焦る者がいた。
跡継ぎのいない羽柴秀吉の養子となり、その中でも世継ぎ待遇を受けていた、羽柴秀次である。
犬山に着陣した羽柴秀吉は、各地の戦場が順調に攻略が進んでいるのに、犬山の戦線だけが膠着していることに対し、羽柴秀次の能力を疑い始めていた。
それを自分達の責任と感じた池田恒興、森長可は、三河への迂回進攻を提言する。
ところが、この行軍は、徳川の密偵によって察知されており、夜間の間に徳川軍別働隊は隊列最後尾の羽柴秀次隊を襲撃。
羽柴秀次隊は、休憩中を襲撃され、大将の羽柴秀次以下わずかの兵以外壊滅。
その後別働隊は、堀秀政軍を襲撃するものの、さすがに連戦は厳しかったのか、あっさり返り討ちに会っている。
一方の徳川軍本体は、岩崎城を攻略した池田隊、森隊の退路を断つように長久手に布陣。
池田隊、森隊も奮闘したものの、森長可が討死すると、羽柴軍は雪崩をうって崩壊してしまった。
だが、この長久手の大敗北以外の羽柴軍の進攻は、滞りなく行われており、織田信雄の拠点は次々に陥落していった。
長久手の勝利で、進攻を食い止めた徳川軍だったが、小牧山城に戻り、それ以上の反撃はできなかった。
また、完全に遅れたタイミングで、長宗我部元親軍と根来、雑賀の傭兵隊が摂津の岸和田城を攻略するのだが、中村一氏たち城代の奮戦により、落城を免れている。
<天正大地震>
この秀吉包囲網は、ある出来事によって、突然終戦を迎えている。
琵琶湖東部の活断層の地震が、周辺の活断層を巻き込み、さらに南海のプレートも刺激したことで、中日本を中心とした、超巨大地震が発生したのだった。
これは、小牧城にいた徳川軍にとっても甚大な被害ではあったのだが、中日本を広く領有する羽柴軍にとっては、尋常ではない被害となっていた。
最大震度は、東近江から美濃にかけて、6強と推測され、マグニチュードは7.9と推測されている。
(関東大震災がM7.9、阪神淡路大震災がM7.3、中越地震がM6.8、東日本大震災がM9.0)
各地で城の石垣や天守閣が崩れ、死者も多数発生し、震災への対応で、戦どころではなくなってしまったのだった。
結局、徳川家は羽柴家に降伏することになり、羽柴秀吉の妹旭姫が、徳川家康の継室になり、徳川家康の次男、秀康が、羽柴秀吉の養子になることになった。
<四国へ>
黒田孝高の戦場は、四国に移ることになる。
小牧長久手で、羽柴家に公然と敵対した長宗我部家は、討伐を受ける事となり、比較的震災の影響の薄かった、大和郡山の羽柴秀長、備前岡山の宇喜多秀家、備後三原の小早川隆景を中心に討伐軍が編成されることになり、黒田孝高は、宇喜多軍に編成された。
四国を攻めるに、羽柴軍は、3方面から包囲するように一気に攻め込んだ。
小早川軍を中心に毛利勢は伊予に、宇喜多勢を中心とした羽柴第2軍は讃岐へ、羽柴秀長勢を中心とした羽柴本軍は阿波へ進攻した。
長宗我部軍には、3軍を一気に相手できるほどの、軍団長も兵もおらず、それ用の拠点も無かった。
結局、数戦し、敗北した長宗我部家は、羽柴家へ降伏することになるのだが、土佐一国に領土は減らされることになった。
長宗我部家が、柴田家のように潰されなかったことで、一人の男が怨嗟を抱くことになる。
その男は、元は美濃の土豪で、美濃斎藤家滅亡後に、織田家に仕官し、竹中重治と共に羽柴秀吉の寄騎になった人物で、名を仙石秀久と言った。
その後も、羽柴秀吉の元で、戦功を重ね、上級指揮官の中では、それなりの待遇だったのだが、福島、加藤、石田、大谷といった、若き将が活躍すると、徐々に影を薄くしていった。
賤ヶ岳の裏で、四国の押さえとして淡路に布陣するのだが、長宗我部軍の攻撃を受け敗走。
支援していた三好家の後継者、十河存保の十河城が落城、滅亡することになる。
賤ヶ岳の戦勝に味噌を付けたこの敗戦に、羽柴秀吉の中で、仙石秀久の限界を見定められることになった。
この時の四国征伐で、上級指揮官としては、堅実な活躍をしており、その結果、讃岐一国の領主になるのだが、長宗我部家への個人的な恨みが、この後、とんでもない悲劇を引き起こすことになる。
<九州へ>
九州は、長く3勢力による三つ巴の戦いが繰り広げられていた。
北東豊後のバテレン大名大友義鎮、北西肥前の下剋上大名龍造寺隆信、南の薩摩の島津義久。
大友家には、立花道雪、高橋紹運という、二人の軍団長がおり、
龍造寺隆信には、鍋島直正という副将と、成松、百武、木下、江里口、円城寺という猛将がおり、
島津には、先代貴久の、義久、義弘、歳久、家久という非常に優秀な兄弟がいた。
こうしたそれぞれの独自の体制は、それぞれの強みとして勢力を拡張していたのだが、若き島津の4兄弟が成長すると、近郊は崩れることになる。
大隅の肝付、日向の伊東、肥後の相良と次々に撃破。
そして、肥前の龍造寺家と対峙することになった。
島津軍には、「釣り野伏」という、伝統的な囮戦術があり、沖田畷に誘い込まれた龍造寺軍は、執拗なまでの包囲攻撃を受け、大名の龍造寺隆信以下、上級指揮官を多数が戦死。
かろうじて戦線を離脱した鍋島直正が隈府城に逃げ帰り、抵抗しているという状況になってしまった。
更に、間の悪い事に、筑後を統治していた立花道雪が病没。
もはや、島津家の勢いを抑えきれないと覚悟した大友義鎮は、関白に就任した羽柴秀吉に降伏すると共に、援軍を要請するのだった。
羽柴秀吉は、先の四国での戦いで、敵味方になった毛利勢と四国勢を纏めて九州へ遠征させ、その大将は、毛利輝元とし、四国勢の大将は仙石秀久とした。
仙石率いる四国軍は、島津軍に比べ数が多かったのだが、いかんせん、仙石秀久は、軍略というものを全く理解しない質で、島津軍の釣り野伏に見事に誘引され、全軍を戸次川に向かわせてしまった。
長宗我部軍も、十河軍も、それが罠であることに気が付き、仙石を諌めたのだが、仙石は、大将として気が大きくなってしまい、進言を退けた挙句、意固地になってしまった。
戸次川に差し掛かると、島津の伏兵に周囲を完全に囲まれ、一斉に攻撃を受けることになった。
十河存保は、仙石軍を見たのだが、なんと、仙石秀久は指揮を執るどころか、単騎で脱出。
長宗我部元親は、世継ぎの信親と、奮戦しながら戦場を離脱しようとするのだが、信親が戦死。
十河軍は敵前の真っただ中にあり、抵抗もむなしく壊滅し、十河存保も戦死してしまうのだった。
四国軍は、この戦で大惨敗を喫し、戦報告を聞いた羽柴秀吉は、仙石秀久を改易に処すのだった。
その後、羽柴秀吉本人が九州に乗り込み、毛利軍と合流し、細川、前田、丹羽、蒲生、池田といった諸大名を勢ぞろいさせ、島津軍に襲い掛かり、降伏させている。
この功により、黒田孝高は、豊前中津の大名になっており、暫くは九州の玄関口の門番として君臨していくことなる。
<関東へ>
長く、室町時代において、東海以西と関東以東は、全く違う統治機構で、全く違う戦乱の世を過ごしていた。
東海以西が、京の将軍による幕府の統治に対し、関東以東は、関東公方による鎌倉府の統治になっていた。
だが、関東公方足利家と、関東管領上杉家は、権力闘争に明け暮れ、最終的に、今川家の閨閥にして、幕府の政所執事の一族の伊勢新九郎という者によって、簒奪されることになる。
伊勢新九郎の子氏綱は、母方の北條氏を名乗るようになり、氏綱の子氏康の時代に、上杉家を関東から駆逐し関東一円を支配。
氏康の子氏政は、越後の上杉謙信、常陸の佐竹義重との戦に明け暮れ、最終的に、織田家の瀧川一益に降伏することになる。
氏政の子氏直は、父の支援の下、本能寺の変後の混乱の中、徳川家、上杉家、佐竹家を相手に、領土拡張を目論むのだが、武田の忘れ形見にような真田昌幸に、引っ掻き回され、いまいち上手く行っていなかった。
そこに、九州を平定した関白羽柴秀吉から、「惣無事令」という全国停戦命令が通達されたのだった。
この頃、東北でも、遅れてきた神童伊達政宗が、大崎、最上、蘆名を相手に、大立ち回りをし、摺上原で蘆名家を潰しており、そう簡単に停戦命令などを聞くはずがないと、北條家では考えられていたらしい。
羽柴秀吉としても、面従腹背では意味が無いと考えており、どこかで一度、命令に服しない勢力をまとめ上げて、大決戦でかたをつける必要を感じていた。
そこで反勢力のまとめ役として選ばれたのが、北條家だった。
羽柴家の中でも、態度の悪い徳川家康の娘が嫁いでおり、徳川家康が、羽柴家を取るか、北條家に情けをかけるかという判断もされていた。
徳川家康は、北條家に降伏を薦めたのだが、拒否されると、娘も突き返されており、見放しながらも、水面下では、降伏を勧告し続けていた。
戦況は、北條軍は、大軍による多方面作戦に、全く対応ができず、あっという間に、小田原城と忍城を残すのみにまで押し込まれていった。
ここで羽柴秀吉は、東北の諸勢力を呼び寄せるように、小田原城を包囲し続けていた。
その間、小田原城では、羽柴軍に攻め追われた各地の軍団長が逃げ込んできており、更に城内の首脳の一部が、包囲軍の諸将により調略を受けており、落城は時間の問題だった。
ところが、忍城の戦況が芳しくないという報が羽柴軍首脳部に入ることになる。
そこで、黒田孝高は、降伏の使者として、小田原城に乗り込み、北條氏政を説得することに成功。
こうして、全国は、関白羽柴秀吉によって完全に統一されることになる。
<拘兎死して>
この後、黒田孝高は、政権中枢から距離を取るようになる。
ある日、羽柴秀吉は、酒席で側近達に「もし、私以外に天下が取れる人物がいるとしたら誰か」と聞いた。
側近たちは、「これまでの戦績の高さから徳川殿では」「人望の高さで、前田殿が」、やれ上杉だ、毛利だと、数々の大名の名が挙った。
その中で、羽柴秀吉は、自分が生きているうちは、彼らには無理だときっぱりと答えた。
羽柴秀吉が挙げた名前は、黒田孝高だった。
側近たちは、小身の黒田孝高が、天下を簒奪なんてできるわけがないと異を唱えてきたのだが、黒田にその気があれば、例え今が小身でも、わずか数年で羽柴家を切り崩して天下を二分してしまうだろう。
これを洩れ聞いた黒田孝高は、少し才を出しすぎたと、反省をしながらも、天下人に才を恐れられたことで、内にある梟雄としての野心が燃えてきてしまい、次への布石を打ち始めたのだった。
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黒田家 その6
http://kazwak.exblog.jp/30507171/
2021-04-29T17:05:00+09:00
2021-05-23T10:34:19+09:00
2021-04-29T17:05:40+09:00
kazwak1
中国
黒田家といえば、黒田藩とまで言われた、筑前福岡藩の家である。
福岡と言えば、誰もが知る九州最大の都市なのだが、そのルーツは、対中華政権への最前線、太宰府に遡る。
その頃、九州は、大陸との距離の関係で、京に比べ、明らかに潤っていた。
京から遠いにも関わらず日本第3位の都市という重要度から、政敵を追いやる左遷場所としても使われ、菅原道真が左遷されたことでも有名だろう。
そんな太宰府だが、遣唐使の廃止によって重要度を失い、徐々にさび付いていき、博多港周辺だけに縮小していく。
その後、源平の争乱の際には、平氏政権の最後の砦となっており、平氏政権が、壇ノ浦での迎撃に失敗すると、太宰府には、鎌倉軍閥の内政官をしていた、天野遠景が抑えることになった。
ところが、天野遠景の統治は、平氏政権に恩のある在地豪族の協力を得られなかったどころか、平氏残党と結託され、なかなか順調にいかず、結局、奉行職を解任されることに。
その後、天野遠景の代わりに、平知盛の旗下だった武藤資頼が、太宰少弐として、派遣されることになる。
武藤資頼は、平氏政権の一員だったこともあり、平氏派豪族を束ねる術を知っていたのだろう。
以降、武藤氏は、官名から少弐を姓とし、九州の諸将を束ねていった。
元軍が襲来した際も、少弐氏の奮闘はすさまじく、鎌倉幕府軍の到着前に、九州の豪族だけで簡単に撃ち破ってしまうほどだった。
この北九州最大の権門少弐家も、室町時代に入り、豪族連合の統治になると、西の大内、大友、南の菊池家の圧迫を受け、徐々に衰退し、筑前の支配権を失っていく。
それに伴い、博多は周辺大名の取り合いとなっていった。
戦国時代になると、肥前と筑後のみの支配になった少弐氏は、部下の龍造寺隆信によって下剋上される。
龍造寺氏は、肥前隈府(熊本)に居を構え、少弐氏の生き残りの鍋島氏の助力を得て、九州北西部の大名として権勢を誇った。
争奪戦となった博多は、大友一族の立花氏によって、町の東の立花山に山城を築かれ、支配されていくことになる。
戦国時代末期になると、山城ブームから、平城ブームに代わり、徐々に立花山城は使いづらくなっていき、小早川隆景によって、より西の、立花山の麓の名島に城を築城される。
その後、関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋が備前岡山に転封になると、そこに豊前中津の大名だった、黒田長政が、転封になった。
黒田長政は、博多の町の東の外れにある名島城が、町全体を巧く取り込めていないと判断し、より市の中心に近い、警固村に新しい城を築き、黒田家再興の地である備前の福岡村から、福岡城と名付けることになった。
現在は、舞鶴公園となっているのだが、天守台はあるものの、天守閣は現存していない。
元々天守閣そのものが建築され無かったかもといわれるほど、かなり古くに失われていたらしい。
<本能寺の変>毛利領を攻めている羽柴軍に、1つの情報がもたらされた。
明智光秀が、織田信長を闇討ちしたがっているというものだった。
その頃の織田信長は、明らかに以前の明晰な感じでも、気配り上手な感じでも無く、傍若無人な老害そのものになりさがっていた。
その態度は、臣下のみならず、朝廷に対しても向けられていた。
織田信長は、司令官としての才能と、内政官としての才能を兼ね備えた、かなり稀有な人物ではあったのだが、哀しいかな、外交の才能が皆無という致命的な欠点があった。
元々、サイコパスな性向が強い為、他者が何を考えているかという事に、思いを及ぼす事がかなり苦手だった。
家臣の家庭の揉め事に関しては、正妻帰蝶のアドバイスなどもあり、うまく纏めることもできたのだが、他勢力との外交は非常に苦手だった。
対徳川家のように、1体1の外交であれば、特に問題は無いのだが、浅井、朝倉のように、対多外交は、朝令暮改な対応や、自分都合を押し付け簡単に崩壊させてしまっている。
家臣内の人間関係を察することも苦手にしており、柴田、羽柴のような、個人的な相性の問題などになると、からっきしだった。
それが摂津、丹波、播磨の国人反乱を引き起こし、長曾我部と三好の外交反転を引き起こしていた。
毛利家での安国寺恵瓊や、上杉家の直江景綱のような、それなりに発言力のある家宰を置いていれば、ある程度欠点も補えたのだが、兄の織田信広が長島一向一揆の鎮圧戦で戦死して以降は、そういった人物を見つけられず、ありとあらゆる面での調整に失敗することになる。
そんな織田信長の調整の失敗の数々は、朝廷や幕府残党の失笑を買いはじめ、織田政権の評判を非常に悪いものにしていった。
会社の評判が悪くなれば、そこで働く社員は士気が下がるもので、責任感の強い者は、自分が何とかせねばという気持ちを抱いていくことになった。
こうした背景が重なりに重なり、結果的に、所領を奪われそうになった明智光秀が、織田信長を攻め殺すことになる。
<中国大返し>
この本能寺の変から、山崎の合戦までの定説は、大河ドラマ「麒麟がくる」の影響で、1次資料が大量に発見されたようで、それらの研究で、恐らく史実からはかなり歪められていることがわかってきているらしい。
また、近年の研究で、各方面軍は、京から赴任地まで、広く平坦な高速街道を敷設していて、広大になっていた織田家領内を非常に近くしていたらしいことがわかっているらしい。
今回は、かなり憶測を含めて、実際はこうだったのではないかという話で、進めてみようと思う。
京の情報を得る為に配置していた密偵から、明智光秀が織田信長を闇討ちしようとしているという報を得た黒田孝高は、羽柴秀吉に、「天下を取る好機が訪れた」と進言した。
詳しい情勢を得る為、密偵を京に大量に送り込み、逐一情勢を報告させた。
更に、有事に対応する為、新設した京までの高速街道に、密かに物資を輸送していった。
そして、本当に本能寺の変が起きることになる。
毛利家の外交僧、安国寺恵瓊も、山陽方面から、本能寺の変の報は入っていたのだが、羽柴軍には、本能寺の変が発生しそうという報から入っており、外交交渉における準備が段違いだった。
この時、黒田孝高と安国寺恵瓊の間で、高松城を落城させることで停戦協定を締結することと、羽柴秀吉が成功し政権を樹立した際は、毛利家を重鎮とすることで、交渉はまとめられた。
この時点で、すでに兵は徐々に京へ向かわせ、街道の行軍準備をさせていた。
高松城主、清水宗治が自害し、高松城が落城すると、羽柴軍は、残った全軍を、高速街道をひた走り、京へ向かった。
織田信長の弔い合戦といえど、総大将が羽柴秀吉では、恰好がつかないため、黒田孝高は、羽柴秀吉と共に、騎馬で兵より先に摂津に向かい、織田信長の3男、織田信孝を総大将に祭り上げ、丹羽長秀、池田恒興の戦力を借り、京へ攻め込むことになった。
一方の明智光秀は、京で征夷大将軍就任の準備を行っていたため、副将の斎藤利三に、山崎で陣を作るように指示していた。
ひと段落ついた明智光秀は、坂本城に戻り、大和の興福寺の筒井家や、丹後の細川家に援軍の要請を行いながら、軍の編成をしていた。
羽柴軍は、どういうつもりか、作成中の陣を攻め潰し、斎藤利三、溝尾茂朝、藤田行政は坂本城に撤退。
翌日、羽柴軍は、明智光秀を討ち取ったと、京で触れ回った。
安土城に布陣していた、明智秀満は、安土城を捨て、坂本城に援軍に向かっている。
その後、羽柴軍は、細川、筒井の援軍到着前に坂本城に攻め寄せた。
明智光秀は、自分が本能寺の変後の政治工作に失敗したことを悟ると、兵団を解散。
以降、京で隠居生活を送る事になる。
数年後、徳川家康の招聘を受け、天海として仕えることになる。
こうして、羽柴秀吉は、ほとんど兵の損失なく、明智光秀を撃ち破り、次の権力争いに全軍を投入できることになるのだった。
この一連の流れによって、羽柴秀吉は、黒田孝高の才能を畏怖することになる。
<清須会議>
清須会議によって、旧織田領の分割が取り決められ、一応の織田家の当主は、織田秀信(当主織田信忠の嫡男三法師)とされ、名代(後見人)として、秀信の叔父北畠信雄、神戸信孝がそれぞれ、伊勢と美濃を与えられた。
大半の領土は、各城主に預けのままとなり、旧明智領は、柴田勝家と羽柴秀吉に分割された。
一見すると、明智光秀を討った羽柴秀吉に配慮された平和協議のように思えるが、実質は、羽柴秀吉による、軍団の独立と、隠れ蓑に柴田勝家軍団も独立させた、織田家の統治機構崩壊の協議だった。
播磨の国人もそうだったが、農民出の羽柴秀吉を、盟主として抱きたくない国人もかなり多かった。
それを目の前で見てきた黒田孝高は、大国同士の一騎打ちで一気に大勢力を飲み込む方針を提案していった。
多くの国人が、家柄の低さと権力を天秤にかけ、権力を選ばざるをえないまで、一気に大勢力になることが必定と。
それが黒田孝高の策略なのか、どうなのかは不明だが、織田家の名代の座を織田信雄と織田信孝は争い始め、それぞれ、羽柴秀吉と柴田勝家に援軍を求めるのだが、この時点で、柴田勝家軍は積雪で行軍がままならず、織田信孝は、羽柴秀吉に攻め滅ぼされてしまう。
後見を果たせなかった柴田勝家の立場は、極めて悪いものになっていった。
動けない柴田勝家の代わりに、伊勢の瀧川一益が挙兵することになる。
瀧川一益は、本能寺の変当時、北条氏政の助力によって、関東管領に就任し、関東を支配しようとしていた。
ところが、本能寺の変の報を聞いた北条氏政が叛旗し、軍団が崩壊。
身一つで関東から尾張に逃げ帰らざるをえなくなり、しかも、結局会議には参加できず、方面軍の軍団長になった人物にも関わらず、全く意向を反映できなかった。
結局、元々の瀧川一益の領土だけが残ることになるのだが、かつての軍団長時代の織田家の出世頭の一人から見たら、見る影もない状態だった。
一発逆転の為には、大きな賭けにでるしかなかった。
羽柴か、柴田か、瀧川一益がベットしたのは、柴田勝家だった。
なんとか、春まで抵抗が続けられれば、越前の柴田軍が、羽柴軍の後方を突いていくれる。
そう考え、北伊勢で、じっくり籠城戦に出ていた。
この時、瀧川一益が籠城した長島城は、かつて、北伊勢で一向一揆が発生した際、一揆軍に奪われて、籠城された城である。
長島城自体は、そこそこの大きさの特徴の無い平城なのだが、問題はその場所で、木曾川と、長良川の中州に建てられており、雨が降ると、両川の水嵩が益し、包囲を解かねばならなかった。
その結果、一向一揆を相手にしていた織田軍は、司令部の織田信長の有能な兄弟、兄の信廣、弟の信興などを戦死させてしまい、織田家の統治の欠陥を産む結果になっていった。
そんな難攻な城に立てこもった滝川一益は、なんとか柴田勝家軍の侵攻まで耐えきったのだった。
<賤ヶ岳>
羽柴軍は、織田信雄軍と、蒲生氏郷軍を残し、琵琶湖東岸の長浜へ進軍。
両者は、琵琶湖北東の余呉湖を挿んで対峙。
だが、この状況、両陣営共に、湖を迂回して侵攻せねばならず、そうなれば、反対方面から、本陣を突かれる危険があった。
膠着する戦況に、周囲の状況が変化。
隣の美濃の岐阜城で織田信孝が、再び反旗を翻したのだった。
それを聞いた羽柴軍の首脳部で、羽柴秀吉を大将とする討伐軍を編成することにした。
当然、それを見た柴田軍では、先鋒の佐久間盛政が、襲撃を開始。
柴田勝家は、罠の可能性を考慮したが、消極的と全軍に思われるのも勢いを削ぐと考え、佐久間盛政の勇猛さに期待した。
琵琶湖南東に布陣していた佐久間盛政は、余呉湖を反時計回りに進軍し、柴田軍を急襲する位置に配された桑山隊を撃破し、琵琶湖南西の砦に布陣した中川隊も撃破。
勢いにのられ、全軍崩壊の危機を迎えた羽柴軍だったが、この勢いの乗りまくった佐久間隊を、黒田孝高隊が、がっちり食い止め、時間稼ぎをした。
なんと、その間に、羽柴本陣が、賤ヶ岳に戻ってきたのだった。
中国大返しの時もそうだったが、織田信長は、領内の感染道路を高速道路に改修しており、物資の輸送を考えず、兵だけを移動させるならば、織田管内での移動は、極めて迅速に行えた。
岐阜城を包囲していた羽柴本陣は、中山道を西進し、関ヶ原を通り、琵琶湖東の北国街道を北進。
余呉湖に到着した羽柴本陣は、黒田隊、羽柴秀長隊によって足止めされていた佐久間隊を半包囲。
佐久間盛政は、余呉湖を北上し、柴田本陣に向け後退していった。
佐久間盛政も単なる猪武者では無い。
このまま羽柴本体を誘導していき、勢いがつき止まれなくなったところを、前田利家隊に砕いてもらおうと考えていた。
ところが、迫りくる羽柴軍を前に、前田隊は、一戦もせず越前に逃亡。
この前田隊の敗走によって、本陣が丸裸になってしまった柴田軍は、全軍を越前に向けて後退させることに。
だが、この後退指示は、柴田軍全軍の士気を完全に挫いてしまい、それを見た羽柴軍は猛烈に追撃、柴田軍の多くが、福島、加藤といった若き将達の功名の餌食になっていった。
後退が潰走になった柴田軍は、北ノ庄に戻ってこれた者はとんどおらず、精鋭軍も崩壊。
その後北ノ庄城も落城。
残った前田利家、佐々成政は、羽柴家に降伏することになるのだった。
これで、旧織田領のほぼ全てを引き継ぐことになった羽柴秀吉。
ここから、全国統一の戦が始まることになる。
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黒田家 その5
http://kazwak.exblog.jp/30469419/
2021-03-26T15:03:00+09:00
2021-03-29T09:26:21+09:00
2021-03-26T15:03:33+09:00
kazwak1
中国
黒田官兵衛といえば、大河ドラマ「軍師官兵衛」で岡田准一が主演を演じていた。ここのところ、喜多川社長の死後、ジャニーズ事務所の退所の報が後を絶たないが、喜多川社長の生前、今最前線で活躍しているタレントが、大河ドラマに多数出演していた。竹中直人の「秀吉」では、渡哲也の織田信長の小姓、森蘭丸を、TOKIOの松岡昌宏が演じていた。この作品では、石田三成を、子役時代の小栗旬が演じており、大人になった頃は真田広之が演じていた。真田広之は、そこそこの年齢な為、若輩の松岡昌宏が足蹴にしている映像は、ちょっと異様な気がした。「毛利元就」では、若き毛利元就と、孫の毛利輝元の2役を、V6の森田剛が演じていた。何気に、元就役の時は、クソ生意気な演技で、輝元役の時には、小心者の演技をしていて、意外とジャニーズはやれると思ったものだった。
そんな感心を一掃したのが、「新撰組!」と「義経」だった。「新撰組!」で主役だった、近藤勇役のSMAPの香取慎吾の棒立ち、棒読みという、学園祭のような演技にがっかりした。もう1人の主人公、土方歳三の山本耕史も、正直演技が冴えなかった為、主人公2人の演技が渋いというちょっとアレな状況だった。山南敬助役の堺雅人のずば抜けた演技と、芹沢鴨役の佐藤浩市のドスの効いた演技が強烈で、全体で見れば、かなりの良作になっていたが、香取じゃなければもっといい作品だったのではと、今でも思っている。
最悪だったのが、「義経」の滝沢秀明だった。当時のニュースで、未だに覚えているのは、弁慶役の松平健が、滝沢が台詞を全く覚えてこず、滝沢がしゃべるはずだった台詞を松平健がしゃべるように台本を変更したというものだった。最初の方は、滝沢がごにょごにょ舌足らずの早口でしゃべっていて、よく聞こえず、後半は、弁慶が主人公なのかな?と思うほどに、松平健の主張が出過ぎてしまっていた。
この後、私は、ジャニーズに対してアレルギーがひどかったと思う。未だにその傾向はあるのだが、そのアレルギーの中で、「ジャニーズだからダメ」なわけじゃないと気づかされたのが、この「軍師 官兵衛」だった。ジャニーズ特有のボソボソしゃべりは、若年期を演じていた頃は、さすがにもう少し元気にやれないものか?と思ったものだが、壮年期以降は、深謀のように感じ始め、全体的には、良い演技に感じた。
2013年の「どうする家康」では、嵐の松本潤が家康を演じるそうだが、これはどうなることやら。徳川家康が主人公といえば、以前に滝田栄が演じている。徳川家康のイメージからかけ離れた、長身痩せ型の滝田栄で、当時はかなり物議を醸したらしく、全体的になんだか暗く、そこそこの出来に終わってしまったちょっと残念作だと思う。
やっぱりジャニーズは・・・とならないことを望みますね。
<黒田職隆>黒田重隆は、父高政と共に、新天地をめざし、播磨に流れ着いた。
そこで腐らず、目薬を売り、財を成し、その財によって、御着城の小寺政職に仕える事になった。
黒田家の中興の祖とも言える、子の黒田職隆は、かなり目端の利く人物だったようで、小寺政職の汚れ仕事を請け負うことで、小寺家中で出世していき、小寺姓を賜り、姫山城(後の姫路城)の城代にまで出世していった。
黒田職隆は、単なる軍事拠点だった姫山城を改修し、さらに城下町を整備し、小寺家の一大拠点に育て上げていった。
その後、主家の小寺政職は、クーデターを起こし、赤松晴政を置塩城から追放し、晴政の子、義祐を当主に据えている。
その頃、浦上家でも、当主の政宗と、弟の宗景が、尼子家につくか、毛利家につくかの方針の違いで対立し、クーデターの真っ最中だった。
浦上家の当主は、長男の浦上政宗だったのだが、浦上家の重臣である、島村盛貴(大物崩れで戦死した島村貴則の子)、中山信正、宇喜多直家(宇喜多能家の嫡孫)といった面々は、弟の浦上宗景に組しており、浦上政宗の統治はハリボテ状態だった。
そこで、浦上政宗は、弟との関係を修復し、それまで永遠のライバルだった赤松義祐と手を組むことにした。
浦上政宗の嫡男清宗は、友好の一環として、赤松義祐の事実上の宿老、小寺政職の筆頭家老、小寺(黒田)職隆の娘を娶ることになった。
この時点で、浦上政宗は、赤松義祐の家中で、黒田職隆が、かなりの権勢を持っていると実感したのだろう。
その婚姻の晩餐の最中、赤松政秀と浦上宗景一党による襲撃を受けることになる。
この襲撃で、浦上政宗、清宗親子は殺害され、後を継いだ浦上清宗の弟誠宗も、浦上宗景に暗殺され、室津城の浦上政宗の家は滅亡することなる。
黒田職隆としては、室津浦上家と置塩赤松家を結びつけることで、2つに分裂した赤松家、同様に2つに分裂した浦上家を結びつけ、赤松家の再興がなるはずだった。
ところが結果として、龍野宇野(赤松)家と、天神山浦上家(宗景)という、主家と対立している家同士を結ばせてしまい、もはや道が塞がれてしまった。
絶望した黒田職隆は、家督を嫡男の孝高に譲り、隠居することにしたのだった。
<万吉>
黒田孝高は、幼少期から、見栄えのする、かなり光るところのある少年だったらしい。
母は、小寺政職の養女で、明石長行(正風)の娘岩姫。
(明石長行の大叔父景行は、浦上家に仕えており、景行の孫、景親は、浦上家の家老として活躍している。
また、景親の子景盛(全登)も、浦上家の家老で、宇喜多直家と行動を共にしており、関ヶ原の戦いで、宇喜多家が改易になった後、浪人として、大阪城の戦いに豊臣方として参戦している)
小寺政職は、この黒田職隆の嫡男の万吉を、小姓として自分の元に仕えさせ、小寺家の未来を託す将として扱っていた。
小寺万吉が生まれた頃、安芸では毛利元就が、隠居し、家督を嫡男の隆元に譲っている。
物心ついた頃には、毛利家では、両川体制が整っており、5歳の頃に、厳島の戦いが起こっており、山陽にまで影響力を誇った大内家、さらに大内家を下剋上した陶晴賢を滅ぼしている。
万吉は、元服すると、小寺官兵衛祐隆を名乗り、小寺政職の養女で櫛橋伊定の娘、光を娶る。
その頃、隣の浦上家では、宇喜多直家が、島村盛貴や、中山信正といった、浦上家の重臣を暗殺しまくり、浦上家を乗っ取る準備を着々と進めていた。
一方の毛利元就は、月山富田城を攻め落し、尼子家の当主尼子義久は逃亡、あれだけ播磨に脅威を与えた尼子家は、事実上滅亡することになった。
<官兵衛>
浦上家との婚姻の儀を襲撃され、父職隆が隠居し、家督を継ぐことになるのだが、官兵衛の置かれた状況は、目を覆うものであった。
主家の赤松義祐は、威光など微塵もなく、もはやお飾りですらなく、主家の小寺政職は、人を見る目があり、決して無能というわけではないのだが、主家を傀儡にして播磨一国を束ねられるまでの傑物ではなかった。
赤松家の分家の別所安冶や、有馬重則などとは完全に疎遠となっており、龍野城の赤松政秀が、隙あらば兵を送ってくる状況。
最も最悪だったのは、赤松義祐の最大の支援者だった、天下人三好長慶が病死し、援軍が見込めなくなっていることだろう。
この悲惨な状況を、独力でなんとかできるような人物は、戦国時代長しといえど、「鬼才」毛利元就くらいのものだろう。
異世界転生人のような毛利元就ではない、普通レベルの天才の小寺官兵衛は、主家をどこか勢いのある大名家に就けることで、躍進させようと考えていた。
山陽道の拠点として、姫山城には九州と畿内の情報が常に集まっていたというのが、この頃の官兵衛の糧となっていたのだろう。
異次元の天才毛利元就は、その才能は不可能を確実に可能にできる才能と行動力を持っていたのだが、いかんせん、スタート位置が後ろ過ぎ、既にかなりの高齢になっていた。
世継ぎである毛利輝元は、完全にお爺ちゃん子に育ってしまっており、かなり甘さの目立つ人物だという情報が入っており、先行きに不安があると感じていた。
その中で、小寺官兵衛が耳にした人物で、最も気になったのが、織田信長という人物だった。
小寺官兵衛が家督を継いだ1567年は、織田信長が、斎藤龍興を稲葉山城から追い出し、美濃の実権を握った年である。
尾張の守護代の分家の廃嫡された青年が、東海道の巨星今川義元を敗死させ、南朝の古豪北畠家を乗っ取り、美濃の梟雄斎藤家を攻め滅ぼした、その情報は、遠く播磨にまで、次期覇者候補の筆頭として伝播していた。
この時期、3か国以上を制している勢力は、毛利(周防、長門、安芸、石見、伯耆、出雲)、三好(阿波、讃岐、摂津、和泉、河内、山城、大和)、北条(伊豆、相模、武蔵)くらいなものなので、突然地方覇者が湧いてきたという印象を持った人も多かっただろう。
同じタイミングで、越前の朝倉義景の元にいた明智光秀も、主人である細川藤孝に、将軍の足利義昭に織田信長を頼らせるように進言している。
つまり、ある程度情報を収集している人物にとって、この時点で、織田信長という新星は、かなり魅力的な名前だったということだろう。
翌年には早くも織田信長は上洛を果たし、三好残党を京から追い払い、足利義昭を上洛させている。
織田信長が上洛したということは、播磨の赤松家にとっては、織田家がすぐそこまで進攻してきたということである。
ところが、足利義昭は、全国に支援者を募り、古い室町幕府のスタイルである、大名連合によって、幕府を再興しようとしていた。
その結果、足利義昭と、織田信長の仲はすぐに冷えて行き、徐々に織田信長は、足利義昭の罠によって苦しめられていくことになる。
<播磨防衛戦>
何も、この情報を得ていたのは、官兵衛だけでは無い。
最もフットワーク軽く、この状況を利用したのは、ライバルの龍野城の赤松政秀だった。
赤松政秀の元にも、足利義昭からの助力の書状が届いており、赤松政秀は、これを利用して、足利義昭に、自分が赤松の本家であると既成事実を作ろうとした。
それに対し、置塩城の赤松義祐は、赤松政秀を潰してしまおうと考え、天神山城の浦上宗景に、赤松政秀攻めの共闘を申し入れた。
播磨を攻める口実を、まさかの赤松家から得た浦上軍は、大喜びで龍野城へ押し寄せるのだった。
焦った龍野城の赤松政秀は、足利義昭に救援を申請し、足利義昭は、織田信長に播磨侵攻を指示することになる。
織田信長は、この時点では、室町幕府との二重政権状態であり、摂津の国人池田勝正を援軍の指令とし、摂津と東播磨の国人を播磨に攻め込ませることになる。
この時点で、播磨は、赤松義祐、小寺政職、小寺官兵衛、浦上宗景の置塩城の赤松本家軍と、
赤松政秀、織田信長軍(池田勝正ほか)の龍野城の宇野赤松家軍という図式で戦役が始まることになった。
目の前に大軍を見た、赤松一門の別所安治は織田家に降伏、赤松本家は、三好家に援軍を要請するも、戦役開始時には色よい返答が無く、赤松本家は滅亡を待つのみという状況だった。
織田軍が播磨に入ると、龍野城を攻めている浦上軍が蹂躪されると考えた宇喜多直家は、岡山城から軍を天神山城へ向かわせる。
この報を聞いた、浦上宗景は、急ぎ天神山城に戻ることになり、赤松本家はさらに軍の総数が激減。
置塩城の赤松家を圧倒的大多数の織田軍が、御着城の支城の姫山城の黒田家を、龍野城の赤松軍が攻めるという状況に変わったのだった。
織田軍が、置塩城と御着城に向かい、龍野城の赤松軍は、姫山城へ攻め込んでくることになった。
赤松義祐は、置塩城に籠城する為、姫山城の兵まで引き抜いていってしまい、姫山城には極わずかな兵しかいなかった。
そこを、龍野城の軍に攻められてしまったのである。
普通なら、姫山城を一時的に廃城にして、御着城か置塩城へ引いて、兵を纏めることを考えるだろう。
ところが、小寺官兵衛は、父黒田職隆と共に、少ない兵を随所に伏兵し、攻城戦だと思っている龍野赤松軍をゲリラ戦で撃ち破ってしまったのだった。
さらに、赤松政秀が敗残兵をまとめ、翌日に反撃しようとしたところを、夜襲をしかけ、10倍近い兵を敗退させることに成功したのだった。
この後、織田軍は、攻城戦を適当にこなしただけで撤退することになり、置塩城の赤松家(赤松晴政は隠居し、世継ぎの赤松則房)は織田家に服従することになる。
ようするに、織田家にとっては、今回の行軍は、威圧外交だったのだった。
また、将軍家に臣従した龍野城の赤松政秀は、置塩城の本家が織田家に従属した事で、播磨で孤立することになり、浦上家に臣従することになる。
その後すぐに赤松政秀は暗殺され、浦上家も、赤松家も、内部分裂は解消することになったのだった。
<織田と毛利の境で>
先の戦役の2年後、毛利元就が没している。
この頃になると、1郡持ち程度の超小勢力の家は、周辺の家に吸収され、一部は地方覇者に育ち、地方覇者同士が大戦を引き起こす時代に入っている。
毛利元就は、自分1代で天下を望めなかったことで、跡継ぎの毛利輝元には、天下の仕置より、お家の継続を第一に考えろと遺言している。
一方の、天下人織田信長は、将軍足利義昭とのそりが合わず、足利義昭の共闘外交に苦しめられ、越前侵攻で大敗北を喫している。
織田家の影響力が、包囲網で弱まった事で、織田家に服従、臣従した各家は、各々勝手な行動を起こすことになるのだが、姉川の戦いでの勝利をターニングポイントに、織田信長は、畿内をほぼ掌握し、朝倉、浅井を滅ぼし、近江、越前、若狭を接収。
ここからは、西は泥沼となる本願寺との対峙、東は古豪武田との対立という、中々に一筋縄ではいかない状況となっていた。
播磨にとって、非常に問題だったのは、毛利家が、足利義昭を擁し、織田家への共闘外交を未だに続けていることだった。
織田の覇権か、室町幕府の再興か。
どちらかに賭ける必要がでてきたのだった。
後世の我々からすれば、この時点で幕府再興に賭けるとか、どんな間抜けだと感じるだろうが、細川政元、細川高国、三好長慶という前例を見てきている当時の人達からしたら、そろそろ織田信長も、そのリストに入る頃だろうと感じる者もそれなりにいた。
その典型が、丹波の波多野家だっただろう。
そんな空気の中で、小寺官兵衛は、主君の小寺政職を説得し、織田家への従属させている。
さらに人質として、小寺官兵衛の嫡男、松寿丸(黒田長政)を人質として、安土城へ預けもしている。
どうやら、この頃に、小寺官兵衛は、羽柴秀吉一派と親交を持ったらしい。
特に、竹中重治とかなり深い親交を持った。
なお、浦上家では、家老の宇喜多直家が、小寺政職に預けられていた先代浦上政宗の子誠宗の子久松丸を擁立し、謀反。
織田派の当主の浦上宗景は、敗れ、天神山城を追放されている。
<山陽方面軍>
東で武田信玄が遠江の戦役の途中で病没すると、世継ぎの武田勝頼は、統領として才能に欠けており、武田家は徐々に内部崩壊しはじめていった。
一方で、西の本願寺籠城戦は、毛利の支援もあり、戦局は一向に好転しない。
この時期、すでに織田信長は隠居し、家督は嫡男の織田信忠が継いでいて、北陸には柴田勝家が北陸方面軍として、加賀、能登の一向衆、及び、かつての三管領、畠山家との戦に明け暮れていた。
また、南海道には、佐久間信盛が、方面軍として、本願寺を包囲しており、当主の織田信忠は、中山道から武田家を攻めていた。
そこで、織田信長は、本願寺を支援する毛利家を討伐する為、山陽道に方面軍を新設することにした。
播磨の旧赤松家臣たちは、山陽方面軍に所属することになったのだが、方面軍司令羽柴秀吉の名前に、動揺することになる。
織田家は、大勢力で、天下人であるため、そこに所属することに、そこまでの抵抗は無かった。
だが、武家として、農民の羽柴秀吉の指示を仰ぐのは、我慢がいかなかった。
播磨では、赤松一族の三木城の別所長冶が、旧赤松家の一門、家臣をまとめ上げ、羽柴秀吉に反抗。
隣国の摂津の国人も、同じように思う者がいたようで、有岡城の荒木村重もこれに呼応している。
更に、この謀反を毛利家が支援。
小寺官兵衛の主君、小寺政職も、この反羽柴騒動に呼応しようとしてしまうのだった。
小寺官兵衛は、小寺政職を反羽柴に呼応しないように説得したのだが、かなり難攻し、荒木村重を説得できたら、反乱への呼応を取りやめてもらうということになった。
有岡城に乗り込んだ小寺官兵衛だったのだが、全く聞く耳を持ってもらえず、地下の土牢に収監されてしまうのだった。
土牢は、有岡城の立地の関係で、沼状になっており、蛭などの害虫が湧き放題だった。
収監時は10月で、寒さですぐに体調を崩したが、療養などできず、徐々に髪が抜けていった。
1日中水に浸かっている事と、暖かくなってきた頃に、蛭などの害虫に刺されたことで、脚がどんどん腐敗していき、徐々に、自立することができなくなっていった。
荒木村重が籠城戦を選択したため、収監当初こそは、それなりに与えられていた食事も、徐々に回数が減っていった。
そんな収監状態は、1年にもおよび、家老の栗山利安に救出された時には、生きているのが不思議という状況だった。
救出後も暫くは死線を彷徨い、数か月後、なんとか一般生活が送れるようにまで回復した頃、周囲から集めた情報は、目を覆うものだった。
小寺官兵衛は、小寺政職と共に、織田家を離反し、荒木村重の救援に向かったことになっており、嫡男の松寿丸も殺害されていた。
官兵衛が救出されたすぐ後、有岡城は、荒木村重の逃亡によって落城し、荒木村重の家族は皆殺しにされた。
小寺政職は三木城の別所長冶に呼応し、御着城に籠城中。
三木城は羽柴軍の包囲に兵糧はとっくに尽きている中、降伏できずに大量の餓死者を出していった。
一方の織田家では、本願寺を包囲していた司令官の佐久間信盛が追放され、丹波で反乱していた波多野氏は、明智光秀によって鎮圧されていた。
また、武田家は長篠設楽が原の敗戦の後、高天神城を落城させてしまい、信濃の大半を失い、甲斐の新府城で籠城しようという状況。
北陸では、柴田勝家が、一度はコテンパンにされたものの、上杉謙信が病死し、反抗にうつっていた。
官兵衛は、小寺姓を捨て、元の黒田姓に復姓し、黒田孝高を名乗り、羽柴秀吉に拝謁した。
そこで羽柴秀吉から、松寿丸が生きている事を聞かされた。
織田信長からは、松寿丸を殺害せよと命を受けたのだが、羽柴秀吉の参謀長だった、竹中重治の献策により、身代わりを殺害して織田信長に報告していた。
感謝がしたかったが、その竹中重治は、三木城包囲中に病に倒れ、既に他界してしまっていた。
竹中重治は黒田孝高より2歳上で、まだ36歳という若さであった。
総参謀を失っていた山陽方面軍は、かなり精彩を欠いており、参謀長の発掘が急務になっていた。
羽柴秀吉は、黒田孝高を総参謀長に抜擢。
以降、黒田孝高は、山陽方面軍を取り仕切ることになり、鳥取城を渇え干すことで滅ぼし、毛利方の宇喜多直家を寝返らせ、確実に毛利領を切り取っていった。
そこに、1つの報が入ることになる。
明智光秀が織田信長を攻め殺そうとしているというものだった。
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黒田家 その4
http://kazwak.exblog.jp/30449385/
2021-02-27T12:15:00+09:00
2021-03-09T10:24:29+09:00
2021-03-07T14:35:19+09:00
kazwak1
中国
私は、大河ドラマには、3つのパートがあり、そのパート毎で個性の強い俳優が、強烈な演技をできた大河ドラマは成功の大河ドラマだと思っている。そもそも、大河ドラマは、1人の人物にターゲットが絞られており、その人物の黎明から晩年までを描いている。
ということは、
1、主人公が表舞台に上がるまで
2、主人公が表舞台に上がってから、歴史に影響を与えるまで
3、主人公がそれなりの地位を確立した後
のパートができる。
例えば、最近だと、真田丸が話題だったが、
パート1では、真田昌幸役の草刈正雄が圧倒的な存在感を示しており、
パート2では、豊臣秀吉役の小日向文世が、人たらしながらどこか壊れている演技を巧くこなしており、
パート3では、いよいよ堺雅人の真田幸村が烈将っぷりを見事に醸し出していた。
今回の麒麟が来るは、
パート1では、「蝮」として、威圧感と恐怖心を見事に出し切った、斎藤利政役の本木雅弘
パート2では、足利将軍と織田信長を結びつけ、織田家を躍進させた主人公で長谷川博巳の明智光秀
パート3では、明智光秀を頼りながらも、自分との走るレールの差に思い悩んだ染谷将太の織田信長
と、良作の条件を満たした気がする。
今年の大河ドラマも、良い俳優が際立った演技を見せつけて、良作になっていただけることを願うが・・・
<戦国へ>将軍足利義稙の不興を買った黒田高政は、主家の六角家を追放され、京を越えて、播磨に流れ着いていた。
自分の失態によって、それまでの全てを失った事で、黒田高政が受けた心の傷は、相当深いものだったのだろう。
結局、立ち直ることもままならなかったらしい。
播磨の大名赤松家は、赤松家再興の英雄赤松政則を失い、さらに再興の同士、浦上則宗と対立、その浦上則宗も失うことになった。
赤松政則を継いだ義村は、赤松家を戦国大名にするため、軍備、人材、権力の増強にやっきになっていた。
それに対し、浦上則宗を継いだ村宗は、室町式国人連合の路線を押し付けようとしていた。
結果的に、浦上家は、赤松家から事実上独立し、自身が戦国大名となり、赤松家と対立していくことになり、権力闘争に敗れた赤松義村は、浦上家に従属することになり、さらには謀殺されることになる。
黒田高政の子、黒田重職が赤松家に仕えたのは、そんな時期のことである。
<小寺家>
下剋上が日常だった戦国の洗礼を受けた赤松家は、新たに幼君の赤松晴政を抱くことになり、赤松家の復権という、極めて困難なゴールを目指していくことになる。
黒田重職が仕えた小寺家は、赤松家の分家で龍野城主の宇野家の、さらに分家の家。
家祖の小寺景治は、室町幕府初期の戦乱で赤松円心配下の将として活躍しており、赤松満祐が、現役の将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱でも、小寺景治の孫、職治が討死し、小寺家もろとも、赤松家と運命を共にしている。
その後、小寺職冶の子、豊職が、赤松家再興運動にも参加しており、赤松政則によって再興された新生赤松家の、家老の一人となっていった。
小寺豊職の子、政隆は、姫山城(後の姫路城)の城代だったのだが、市川を挿んだ東の、小高い丘に囲まれた御着という地に館を築き、本拠としていた。
ここまでの、歴代の小寺の当主のとった選択によって、小寺の家は、赤松家内でも、忠義の家という印象があり、小寺家と対立した家は、反逆の家という印象ができていた。
それゆえに、赤松政則が浦上則宗によって廃された際、新当主候補への正当性として、浦上則宗は小寺豊職を味方に説得している。
残念ながら、この時、赤松政則を廃することはできず、赤松政則と浦上則宗は、完全に仲違い。
しかも、どちらもまもなく病死。
小寺豊職、政隆親子は、赤松家分家の七条家より、若い赤松義村を引っ張り出してきた。
赤松政則には、小めしという年ごろの娘がおり、小めしを赤松義村と結婚させることで、赤松家の正統世継ぎに担ぎ上げた。
問題は、赤松家から千切れた浦上家に、宇喜多能家と島村貴則という、それなりに有能な副将がいたことだった。
元の赤松家には、小寺豊職、別所則冶といった、そこそこ有能な一門はいたのだが、大名が総司令となり、有能な家臣を部隊として動かす戦国大名の浦上家に対し、一門会議の議長である守護大名では、組織としてのスピードに絶対の差が出るし、有能な人物の台頭にも差がでる。
結果として、赤松家は、浦上家に従属する事態にまで落ちぶれてしまうのだった。
この時点で、黒田重隆は、まだ地位も名誉も無い、単なる若武者でしかなかった。
この若武者が、赤松家中にあって、名を売る機会がやってくる。
それが、細川晴元と、細川高国の諍いであった。
最後の最後で、浦上、赤松軍を頼みとした細川高国は、裏切った赤松晴政の軍に急襲され敗死している。
その時、先陣として活躍したのが、若き黒田重隆だった。
以降、黒田重隆は、小寺則職から姫山城を預かることとなり、姫山城を改修しながら、赤松家のNo2となった小寺則職の元、赤松家の槍となって浦上家を攻めることになる。
<尼子の脅威>
細川高国、細川晴元の、永正の錯乱(両細川の乱)が終結すると、時代はいよいよ本格的な戦国の世に突入していく。
それまで、中国地方では、細川家と、山名家の勢力が圧倒的で、それを西から大内家が圧迫しているという状況だった。
ところが、応仁の乱で、細川家と山名家がトップになって京で大暴れ。
さらに一度は幕府によって討伐を受けた大内家が復活し、上洛し大暴れ。
しかも応仁の乱は、10年続いた上に、泥仕合で終了。
さらに、一応の勝者だった細川家が、永正の錯乱で共食いをしたことで、中国地方の勢力バランスは豪快に変化することになる。
新興の梟雄尼子経久が、主家の京極家の領土の出雲の一部を掠め取り独立。
尼子経久は、周辺の山名家、細川家の諸将を吸収しながらも、戦国大名のシステムを崩さず、山陰の超軍事大国として中国地方南東を押さえ、一気に大勢力に成長。
一方、九州北部の諸将と、安芸の国人を吸収しながら、徐々に戦国大名化し始めている大内家が、山陽に勢力を伸長していた。
山陽の諸将は、軍を差し向け武威外交をしてくる新興の尼子か、室町の雰囲気を残した古豪の大内か、どちらを選ぶかで家中が割れていた。
以前記載した毛利家では、大内派の半国守護武田家と、尼子に靡いた一部の安芸国人との間で、国人盟主の毛利興元が板挟みになり、ストレスで急死している。
その後、毛利元就は、大内と尼子を行き来し、大勢力を同士をぶつけながら、相手国を少数兵で破り、その双方を吸収することで、一気に大勢力を築くことになる。
大物崩れで当主の浦上村宗を敗死させてしまった浦上家は、嫡男の浦上政宗が継いでいる。
浦上政宗は、父を敗死に追い込んだ赤松晴政を許す事ができず、目の前に尼子の武威が迫っているのに、赤松家との諍いをずっと続けていた。
赤松家の家中としても、浦上家の家中としても、「いつものプロレス」の日常だったろう。
そこに、「戦国の申し子」尼子家が迫ってきたのだった。
圧倒的な兵力を前に、浦上政宗は尼子に恭順。
それを見た赤松家の家臣達の中でも、尼子家には従う家が続出。
赤松晴政は、それに対抗すべく、単独での独立を堅持しようと抵抗するのだが、尼子経久の謀略力と、孫の尼子詮久(晴久)の戦略力を前に、家中は完全に疑心暗鬼になってしまい、居城の置塩城を捨て、堺へ逃亡するしかなくなってしまった。
この時点で、実質的には、大名家としての赤松家はほぼ滅びた状態となり、以降は、赤松家の分家である、小寺家や、有馬家、龍野の宇野家が独自に活動していく状態となっていった。
ところが、このすぐ後、尼子経久が病死し、事態が急変することになる。
<さらなる混乱>
謀略家で、軍略家でもある一代の梟雄尼子経久は、「中国の雄・尼子家」を育て上げた人物だけあって、全てにおいてレベルの高い人物だった。
尼子経久は、自分が謀略でのし上がった人物だったので、後継は正統派の方が良いと考えていたと思われる。
後に、尼子経久と同様の鬼謀家、毛利元就も、子の隆元を、同じように育てており、鬼謀家の評価は、大国を纏める為の信用が得難いことを、ずっと感じていたのだろう。
結局、毛利隆元はプレッシャーに押しつぶされ若死にしており、後継者は隆元の子輝元になっている。
尼子経久の嫡男の政久は、組織のトップとしては、父とは似ても似つかぬポンコツで、文化人を気取っており、戦場で笛を吹いていたところを流矢に当たり戦死している。
そこで、嫡男政久の遺児、詮久(晴久)を跡継ぎとして育てていくことになるのだが、晴久は、戦術、戦略と、トップに立つ者としての統率力を磨かせていた。
自分と同等の鬼謀家が、他にいるわけがないと考えており、それなら、クリーンなイメージで売った方が、「尼子家の躍進」を考えれば、正解だったのかもしれない。
また、尼子経久の親族に、組織運営に長けた人物が全くおらず、部隊長レベルの人物のみだった為、内部分裂の危険が無いという安心感もあったのかもしれない。
だが、その方針が誤りだったことは、余命少ない頃に毛利家を攻めた、安芸郡山城攻防戦で露呈した。
これまで、中国地方のでは、山陽の大内、山陰の尼子、という感じで2家が勢力を拡張していたのだが、尼子経久と大内義隆の統治能力の高さによって、尼子家と大内家の対立は激化していく。
その対立が、緩衝地となった安芸で、謀略、政争、軍略全てにおいてずば抜けた、毛利元就というモンスターを生み出すことになる。
個人的な才能としては中の上程度のの大内義隆に対し、尼子経久の個人的な才能は中国地方では群を抜いていた。
その尼子経久が、大軍を率いても、小勢の安芸郡山城を落せなかったのだった。
それも、安芸の半国守護武田家を小勢で破って、名を売り始めた国人毛利元就の指揮によってである。
安芸郡山城の攻略失敗を受けて、尼子軍は、制圧途中の播磨から撤退することになる。
この状況に、尼子家の衰退を感じはじめた周辺の家々は混乱し始める。
浦上家では、それでも尼子家に殉じようとする当主の浦上政宗と、尼子から独立して対抗しようとする弟の浦上宗景で、分裂。
浦上宗景は、毛利元就と組み、浦上政宗を討伐していくことになる。
赤松家では、当主の赤松晴政が置塩城に帰還したのだが、残念ながらすでに赤松家による統治は崩壊しており、有力家臣達が独立行動をしていた。
播磨の守護職を尼子晴久が得ると、小寺政職はついに赤松晴政に見切りを付け、赤松晴政の子義祐を担ぎ出し、赤松晴政を置塩城から追放。
赤松家は、当主の赤松義祐、小寺政職の勢力と、龍野城の宇野政秀、赤松晴政に分裂し、いがみ合いを続けていった。
このクーデターの3年前には、西の安芸では、毛利元就が大内義隆を裏切った陶晴賢を厳島で敗死させており、
このクーデターの2年後には、尾張の国人の織田信長が、駿河の大名今川家の隠居、今川義元を桶狭間で討ち取っている。
この頃から、戦国時代は、急速にゴールに向かって突き進んでいくことになる。
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黒田家 その3
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2021-01-17T12:13:00+09:00
2021-01-17T12:13:32+09:00
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kazwak1
中国
平家政府は、約20年。鎌倉幕府は、約150年。建武の親政が、わずか3年。室町幕府は、約230年。その後、織田政権は、約12年。豊臣政権は、約18年。江戸幕府が、約260年。
こうしてみると、長期政権だったのは、鎌倉、室町、江戸の3幕府。当然、長期政権というと、後継者問題や、大災害、失政を乗り越えて政権を続けてきたことになる。鎌倉幕府では、わずか30年ほどで、そもそも将軍の血統(河内源氏)が途絶えてしまっている。その後、後鳥羽上皇によって、幕府の役割は終わったと、承久の変を起こされている。もし、この戦に負けるか、勝っても北条義時が、専横を糾弾され、追討されたとしたら、鎌倉幕府はそこで終わっていたことだろう。まあ、この承久の変で、執権統治体制が確立し、全国に波及したから、元軍の侵攻を跳ねのけられたのかもしれないが。
江戸幕府は、一見すると、幕末以外に危機は無いように見えるが、実は徳川綱吉の統治末期は、噴火と大地震、それに伴う大不作、さらに全国的な疫病の蔓延によって、各藩の統治は、かなり酷いことになっていた。そこに、徳川綱吉死後、後継者問題が発生しており、もし、ここで徳川吉宗によって、ある程度の軌道修正ができていなかったら、江戸幕府は、全国的な農民一揆によって、いくつかの藩が消し飛んでもおかしくはなかったかもしれない。良い意味でも、悪い意味でも、幕府が重視していたのは1次産業で、3次産業を二の次にしていたのも、統治機構の復旧がしやすかったのかもしれない。
室町幕府は、そもそも、統治というより、各分国を統治する大名連合の盟主というのが、その統治の性格だった。その為、大名は、他の大名を出し抜くために、本拠地となる国の殖産興業に非常に熱心だった。幕府によるモグラ叩きと、大合戦さえなければ、何気に、京以外に住む庶民には良い時代だったのかもしれない。そんな統治機構だった為、歴代の室町将軍は、盟主の座を守る為に、非常に苦労している。そもそも、初代の尊氏からして、南北朝の争いが終わってもいないうちに、弟直義と観応の擾乱を引き起こしているくらい、将軍の権威が低かった。そんな室町幕府が、江戸幕府並みに続いたのは、途中で中興の人物が出現したというわけではない。しいて言えば、義満がそれなのだが。
もし、室町幕府が中興する可能性があったとすれば、足利義材(義尹、義稙)ならば、可能性はあったかもしれない。ただ単に逆境に燃えるタイプなだけの可能性もあるが、かなりの決断力と、判断力を持ち、権力の使い方も上手だった。致命的なことに、運が悪かった為、各地を放浪しまくることになるのだが。義政の代わりが、この義材だったなら、もしかしたら応仁の乱は無かったかもしれない。まだ、管領が将軍のクビを挿げ替えられる時代では無かったので、少なくとも、義持よりは良い結果を出せたような気がする。
<細川京兆家>鎌倉時代末期、細川家は、本家の足利尊氏を、細川公頼と子の和氏、頼春、師氏が全力でサポートすることで、高師直一族、仁木一族に並ぶ功績を立てていった。
高一族の失脚、糟糠の臣の直義陣営への鞍替えもあり、嫡男の和氏、その子の清氏の幕府内での地位は、跳ね上がった。
足利尊氏が亡くなり、義詮が将軍になると、細川清氏は管領職(この時点では執事)に就き、幕府の政務を取り仕切っていったのだが、それが専横とそしられる事になり、失脚。
その後、頼春の子頼之の系統が、京兆家(京兆尹は右京太夫の唐名)として、斯波武衛家、畠山金吾家と共に、管領職を世襲していき、幕府内でトップの権門となっていった。
斯波武衛家は、応仁の乱の前に、管領だった斯波義淳が、老いによって若き将軍足利義政に抗えなくなり、斯波家自体の権威を失墜させてしまう。
畠山金吾家は、斯波義淳に代わり管領になった畠山持国が、権力基盤を築こうと、各地の揉め事を解決しようとし、混乱させた挙句、後継者選びにも失敗し、畠山義就の暴走を招き、衰退。
最後に残った細川京兆家の当主細川勝元が、三管領家を凌ぐ権力を持ち始めた山名宗全に対抗し、応仁の乱を戦うことになったのだが、病没。
細川政元が、父勝元の後を継ぎ、もはや地方が慣習で戦をしていただけの応仁の乱を終息に向かわせることになる。
家同士の深い怨嗟を植え付けて。
応仁の乱に勝者がいるとすれば、恐らくは、この細川政元だっただろう。
ところが、この細川政元、修験道を趣味にしており、戒律により性交をせず、後継者は有力者からの養子で賄った。
まあ、この当時、日野富子のような強欲ババアが権力を握っていたり、母の実家が山名宗全で両親の夫婦仲が冷え切っていたりしていた。
さらに、兄弟も一人姉がいるだけで、その姉は赤松政則に嫁ぎ、夫亡き後赤松家を仕切っており、かなり気の強そうな女性だったようだ。
そんな気の強い女性ばかりを見てきた政元は、あまり女性に良い印象を持っていなかったのだろう。
本来なら、これだけの権門の養嗣子といえば、兄弟や、甥、従弟あたりを向かえるものなのだろうが、残念ながら、細川政元には姉しかおらず、父勝元の兄弟も断絶していた。
そこで、細川政元は、元々権力地盤のある人物ならば、その権力によって、後継者としてスムーズに権力移譲ができると考えた。
摂関家九条家より、澄之を、阿波守護の細川家より澄元を、分家細川野州家より、父勝元の養子勝之の甥高国を、それぞれ養子とした。
血筋から考えれば、近いのは高国で、家格から考えれば圧倒的に澄之で、兵の動員力では澄元という感じだった。
こういう世界では、実家の家格がものを言うものなので、九条家上がりの澄之が後を継ぐものだと、2人の兄弟も思っていた。
ところが、澄之はそうは思わなかった。
公家の理論で生きてきた澄之は、何れ自分は、二人の兄弟に武力で脅され破滅するのだと考えた。
ならば、その前に、父の武力を奪ってしまえばよいと。
公家の理論によって、澄之は、父政元を暗殺し、権力を奪ったのだが、武家の理論で生きてきた澄元は、澄之を「父の敵」として、武によって討ち果たした。
ところが、細川京兆家を継いだ細川澄元だったのだが、足元であるはずの畿内の武家からの反発を招いてしまい、畿内の武家たちが細川高国を頼ってしまったことで、澄元と高国は対立することになってしまう。
その後、この両者のいざこざに、対立した足利将軍家の家督争いも相乗り。
現職の将軍足利義澄は細川澄元と共に京を追放され、上洛した細川高国が、細川京兆家を継ぎ、周防の大名大内義興に支援された先代の足利義稙(義材、義尹から改名)が将軍に復職することになる。
<両細川の乱>
捲土重来をはかる細川澄元と、腹心の三好之長は、京の奪還を試み、なんとか足利義稙、大内義興、細川高国を京から追放するも、足利義澄が病死した後、京の防衛にしくじり追放されてしまう。
(この時、近江の六角高頼は、義稙、高国軍に寝返り、この船岡山の防衛線で、抜け駆けをした黒田高政は、戦後六角家を追放され、播磨に流れている)
せっかく将軍に返り咲いた足利義稙だったが、その軍勢の主軍である、周防の大内軍から、離反者が続出。
(大内軍を支えていた中に、毛利元就の父興元がおり、足利義稙と大内義興の仲を保っていたのだが、将軍に返り咲いた足利義稙は、強大な軍を持つ大内軍を恐れるようになり、邪険に扱うようになる。
足利義稙と大内義興の仲が修復不能と感じた毛利興元は隠居してしまうことになる。
また、この時、勝手に離反し帰国した中には、尼子経久がいる)
足利義稙は、応仁の乱以降、大きくなりすぎた細川家の権威をもっと落とせると察した。
管領筆頭となっている細川家の権威が落ちれば、自然、足利将軍の権威が上昇すると考えた。
そこで、細川澄元が、京から細川高国を追放したのを機に、鞍替えすることにした。
ところが、細川高国は、逃亡先の近江で、南部の六角定頼、北部の京極高清の助力を得て、上洛戦に勝利。
細川高国は、足利義稙を追放し、足利義澄の子、義晴を次期将軍に据えた。
細川澄元は、阿波に逃れるも、ほどなくして病死。
三好之長も自害させられており、細川澄元陣営は、体制を決するほどの敗戦を喫することになるのだった。
(近江での助力を得た大名に京極高清の名が出てはいるのだが、この時点で既にかなりの老齢で、出雲は守護代の尼子経久に掠めとられ、飛騨は守護代の三木直頼に掠めとられ、肝心の本拠である北近江も、国人の浅井亮政(浅井長政の祖父)が事実上支配してしまっており、発言力はほぼ0だった。)
<大物崩れ>
浦上村宗との政争に完敗した赤松義村は、完全に浦上家の従属になってしまっていた。
細川京兆家での政争が始まると、赤松家一党は、縁故の関係で細川澄元陣営に参加した。
だが、細川澄元が京の防衛に失敗すると、赤松一党は細川高国陣営に鞍替えした。
だが、赤松義村は、常に従属関係の解消に暗躍しており、一枚岩でない赤松郡は、細川高国からしたら、やっかいな存在だった。
結果的に、浦上村宗は、赤松義村を隠居させ、幼子の赤松晴政に家督を継がせた。
それでも保護中の足利義晴を擁立し、反乱を企てた為、ついには暗殺されることになってしまうのだった。
これで一体化したはずの赤松党は、細川高国からも重要な位置づけとして扱ってもらうことになる。
この頃、細川高国は、将軍の首を挿げ替えれるほどの権勢だったのだが、重臣の香西元盛を讒言によって殺害してしまった事から、運命が転落していくことになる。
すでに虫の息だった阿波守護家の細川晴元(澄元の子)と、三好元長(之長の子の長秀の子)が阿波で挙兵。
それに合わせ、丹波で香西元盛の兄、波多野稙通、柳本賢治が挙兵。
丹波守護の細川尹賢(高国の従兄弟)に波多野兄弟を討伐させようとするも失敗。
波多野兄弟は、京へ攻め込み、それに合わせ、細川晴元軍も摂津に上陸。
細川高国は、京を脱出し、将軍足利義晴と共に近江に逃れることになるのだった。
捲土重来を果たそうと、畠山高国は、援軍を頼む為、いくつかの大名を回るのだが、すでに戦国時代のほら貝は各地で鳴動しまくっており、全く相手にされず、最後に手を挙げてくれた、浦上軍を重用することになる。
細川高国軍が、摂津池田城を陥落させると、細川晴元陣営は、京を放棄。
京の町は、広いわりに防御施設を無粋だと言って作らない方針だった為、攻めやすく守り難い地だったりする。
それゆえ、多くの将は、京の周囲を流れる川を利用するか、さらに先に作られた防衛拠点を利用していた。
京を簡単に手に入れる細川高国だったが、本当に困難なのは、守りきることだった。
戦略的撤退を決め込んだ細川晴元は、宿老の三好元長に軍勢を建てなおさせ、摂津に軍を上陸させた。
両軍は、摂津天王寺で対峙し、戦況は一進一退の膠着状態となっていった。
そこに赤松晴政軍が、援軍として到着する。
これで、細川晴元軍を畿内から追い出す算段ができたと次の手を練っていた細川高国は、突然敵軍の襲撃を受けることになる。
後方で後詰として控えていた赤松晴政軍は、浦上村宗からの独立を果たす為、三好元長に連絡を取っており、裏切る為に細川高国陣営に参戦していたのだった。
突然の襲撃に混乱した細川高国陣営に、三好元長軍が襲撃。
前後から挟撃を受ける形になった細川高国軍は、壊滅的な損害を受けることになる。
浦上村宗軍は、大将の浦上村宗、副将の島村貫則、松田元陸(松田元成の孫)など、幹部が全滅。
細川高国は、かろうじて戦線を離脱するのだが、残念ながら捕縛され自害することになるのだった。
<さらなる戦国へ>
この「大物崩れ」と言われる、細川高国の敗死によって、細川勝元の暗殺から始まる、細川京兆家のお家騒動は、一応の決着を見る。
だが、関係者はそれぞれ、悲惨な結末を迎えてしまっている。
まず、敗死した、細川高国には、稙国という嫡男がいたのだが、若くして病死。
そこで、高国の残党は、高国の弟細川晴国を担ぎ上げ、細川晴元に対抗したのだが、残念ながら失敗し戦死している。
勝利した細川晴元と、宿老の三好元長だったのだが、大物崩れの後、絞兎が死んだ後の走狗であるかのように、家中で孤立を強めていくことになり、最後は謀反人として処分されることになる。
一方の細川晴元は、三好元長の子、三好長慶を重用することになり、謀反をおこされ、支配基盤を奪われている。
当主を戦死させてしまった浦上家では、浦上村宗の子、政宗が後を継ぐ。
中国地方東部で勢力を急拡大していた、出雲の雄尼子経久の勢力家に組することで、赤松晴政に対抗していった。
だが、浦上家を支えるはずの宿老の宇喜多能家は、大物崩れに絶望して隠居後、何者かに殺害されている。
宇喜多能家は、家督を嫡男の興家に譲っていたのだが、島村盛貫の一党と諍いを起こし殺害されていて、幼少の興家の子直家は、つてを頼り転々としている。
島村貫則の子、島村盛貫は凡人というわけではなかったが、政務以外はさっぱりな、典型的な官僚タイプで、謀略も保身ばかりで、浦上家は衰退していくことに。
大物崩れで浦上家からの独立という、悲願を達成した赤松晴政だったのだが、この寝返りが、赤松晴政の策では無く、三好元長の策だったことがバレバレなことに、この後、浦上政宗との対立は、一進一退の泥沼と化している。
はっきりいって、部下にもそれほど有能な者がいたわけでもないようで、尼子の侵攻が始まると、家中では造反者が続出。
最後は宿老の一門、小寺政職によって嫡男赤松義祐を擁立したクーデターを起こされ、さらに分家の龍野城の赤松政秀にも独立され、領国経営はボロボロになり、赤松家は空中分解していったのだった。
下剋上を果たした戦国大名三好長慶が、天下人になっていく一方、混迷と衰退を深めていく播磨に、一人の智将が誕生することになる。
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黒田家 その2
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2020-12-24T23:46:00+09:00
2021-01-15T10:21:55+09:00
2020-12-24T23:46:48+09:00
kazwak1
中国
日本で有名なお城と言われれば、現皇居の江戸城、大阪のシンボル大阪城、幕末の東北の象徴若松城、桜の名所弘前城、西南戦争で西郷軍を食い止めた熊本城
と、その地域ごとに、挙がる名前はいくつもあれど、城好きが一度は訪れる最も有名な城と言えば、真っ白な白鷺城こと、姫路城だろう。
姫路城は、山陽道を監視する関所のような位置に建設されており、小高い山に、迷路のようなだだっ広い城郭、立派な水堀を構える近代的な平城である。
元々は、その小高い山(姫山)に、称名寺という寺があり、その寺を要害化した山城が始まりで、鎌倉時代の末期の頃の話である。
設計は、後醍醐天皇の元、討幕の中心として活躍した悪党、赤松円心。
その後、代々、姫山城は、一門の小寺氏の居城として運用された。
その間、姫山城が籠城戦で活躍したというような記録が無く、嘉吉の変でもあまり重要視はされておらず、はっきり言って、砦に毛が生えた程度の、およそ難攻不落とは程遠いものであったらしい。
結局、赤松家が再興されると、小寺家は、姫路から市川を挿んだ東の難所の御着に館を建て、そこを居城とし、姫山城は、部下の黒田重職に委ねられた。
御着城の支城程度の小城であった姫山城は、黒田重職と、その子職隆によって、麓に曲輪と市川から引いた水堀を作ることで、軍事拠点となる山城に作り替えられた。
それでも、およそ籠城に耐えられるほどでは無かったようで、黒田職隆の子、孝高は、10倍の赤松軍が攻めてきた際、籠城せず野戦を選択している。
時は下り、関ヶ原の戦いの後、姫山城には、徳川家康の娘婿(督姫、北条氏直から再嫁)池田輝政が、吉田(豊橋)から転封になる。
その際、姫山城は、西国の島津や毛利の上洛を阻止する要害として、迷路状の巨大曲輪を増築され、複数の馬出が作られ、天守閣も連立型の巨大なものに建て替えられ、櫓も随所に乱立、さらには、真っ白な漆喰を多用する目立つ仕様に替えられ、名前も姫山城から、姫路城に変更した。
幕末まで、姫路藩は代々池田家によって、保持されていくことになるのだが、そこまで見事に設計された要塞だったのだが、残念ながら戦場になることはなかった。
江戸時代、多くの城で天守閣が失われた原因は、落雷による火災だったのだが、江戸時代を通して、姫路城は落雷で焼け落ちることは無かったらしい。
明治時代になって、各地の天守閣は、極左の明治政府によって、旧時代の悪しき建築物として、二束三文で風呂屋に売られたのだが、はっきり言って、明治政府の統治は、まともな藩政に比べれば、下の下で、落札した風呂屋も、天守閣を保持し続けていることが多かった。
最後に、第二次世界大戦での、連合軍の空襲で焼け落ちた城もかなりあった。
名古屋城がその典型なのだが、姫路も空襲の被害を受けている。
ところが、唯一城を直撃した爆弾も不発弾で、空襲に耐え抜いている。
現在、姫路城の天守閣では、その頂上にある社は、「落ちない城」「強運の城」にあやかり、受験生の合格祈願の社となっている。
<皇室の闇>鎌倉時代の中期、皇室では、後継者争いが勃発していた。
事の発端は、88代後嵯峨天皇が上皇となり、89代後深草天皇の時代。
後嵯峨上皇には、桓仁王という、後深草天皇の6歳下で10歳になる、かわいい皇子がいた。
後嵯峨上皇は、16歳の自分の息子の後深草天皇に、桓仁王へ皇位を譲るように強権を発動した。
渋々後深草天皇は、弟の桓仁王に皇位を譲り、桓仁王は、90代亀山天皇として即位。
その後、後深草上皇に皇子煕仁王が生まれ、孫の誕生に喜ぶ後嵯峨上皇だったのだが、亀山天皇にも皇子世仁王が誕生すると、世仁王を皇太子に任命。
このやりたい放題の後嵯峨上皇が崩御するのだが、その遺言状には、とんでもない爆弾が仕込まれていた。
その遺言状には、「皇統のことは幕府に相談せよ」と書かれていたのだった。
この後嵯峨上皇は、自分の皇子宗尊王を鎌倉幕府の将軍に提供することで、鎌倉幕府を、名目上、朝廷の一機関に戻した人物だったりする。
後深草上皇と、亀山天皇は、遺言に従い、幕府に相談した結果、後嵯峨上皇の意向を重視し、亀山天皇が皇統ということ決まった。
亀山天皇は、その後、世仁王に譲位し、世仁王は91代後宇多天皇として即位した。
納得のいかない後深草上皇は、執権の北条時宗に直談判。
困った北条時宗は、後深草上皇の皇子煕仁王を、後宇多天皇の皇太子に据え、10年程度の在位で後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)で、交互に皇統を継いでいくという、とんでもない案を採用させてしまった。
これに不満を持ったのが、96代後醍醐天皇だった。
そもそも、96代には、本来94代後二条天皇の皇子邦良王がなるはずだった。
だが、当時邦良王はまだ幼少で、セットアッパーとして就任したのが、後醍醐天皇だった。
後醍醐天皇は邦良王が成長した段階で譲位することになっていたし、その後は、後深草系の93代後伏見天皇の皇子豊仁王になるはずだった。
ところが、後醍醐天皇は、自分の皇子に皇統を継がせたいと、わがままを言いだした。
そのわがままが、こんな変な制度を押し付けた鎌倉幕府に向かい、結果として鎌倉幕府を討幕し、後醍醐天皇の建武の親政がスタートする。
ところが、建武の親政は全く持ってうまくいかず、結果的に足利尊氏の離反を招くことになり、その足利尊氏は、豊仁王を光厳天皇として即位させ、室町幕府を開幕してしまう。
だが、後醍醐天皇も負けておらず、吉野に遷都し、しぶとく皇統を続けていった。
この状況が解決するのは、100代目になる北朝5代後円融天皇の皇子後小松天皇の時だった。
時の将軍足利義満は、将軍の権威を高める最大の手段として、かつての藤原道長のように、皇室を操ろうとした。
その為には、南朝が邪魔だった。
そこで、足利義満は、南朝の後亀山天皇に、もう一度、以前のように、北朝と南朝で、交互に天皇をだすようにしないかと、交渉した。
後亀山天皇は、これを承諾し、とりあえず、統一の天皇として、北朝の後小松天皇が即位することになった。
ところが、後小松天皇は、そんな約束最初からなかったかのように、皇子の実仁王に皇統を継がせ、101代祢光天皇として即位させる。
当然、後亀山天皇の皇子たちは、不満をもつことになる。
後亀山天皇の皇子小倉宮を即位させようと伊勢の北畠満雅が挙兵するのだが、鎮圧されてしまう。
祢光天皇が皇子を設けず崩御したことで、後亀山天皇の皇子たちの不満は爆発してしまう。
祢光天皇のあとを継いだのは、北朝3代崇光天皇の子で伏見宮家の皇子だった。
そんな東遠を皇統に就けるくらいなら、南朝に皇統をくれよと騒ぐ南朝の皇子たち。
まあ、当然といえば当然だろう。
後亀山天皇の弟、御聖院宮の孫たちは、新たに天皇になった102代後花園天皇の内裏(禁蕨)へ忍び込み、三種の神器を奪うという、禁蕨の変を引き起こすのだった。
この頃、幕府では、暗殺された義教の後継である、7代義勝がわずか8歳で病死しており、8代目の将軍が全く決まらず、義政に決まるまで6年を費やしており、幕府が管領の私物と化し、機構が長期にわたって麻痺していた時期にあたる。
その後乱は鎮圧されるのだが、三種の神器は、行方不明のままとなっていた。
<長禄の変>
嘉吉の変で現役の将軍足利義教を暗殺した赤松家は、幕府の敵となってしまった。
赤松家を執拗に潰そうとする山名宗全は、幕府に対する忠義者という扱いになった。
播磨、備前、美作を赤松氏から接収した山名宗全は、赤松家の家人をほとんど登用せず、家人たちの多くは浪人にされた。
赤松家の旧臣達は、赤松家を再興するしか残された道が無くなり、さまざまな道を模索した。
他家を頼って再興しようと、満祐の甥の赤松則尚が、管領の細川家を頼ったのだが、山名宗全に潰されることになる。
三管領ですらその状況なのだから、山名宗全に対抗することの困難さは、絶望的だった。
大名家がダメなら、残るは、天子と公方しかいない。
公方の足利義政は、父を赤松満祐に殺害されており、そこを籠絡するのは論外である。
であれば、最後の望みは天子様。
そこで赤松家の旧臣が目を付けたのが、前述の後南朝(後亀山天皇の弟、護聖院宮の一党)だった。
護聖院宮椎成王の孫、通蔵主、金蔵主兄弟による後南朝による襲撃事件は鎮圧されたのだが、兄弟に強奪された三種の神器は、見つけられなかった。
赤松家の旧臣達は、金蔵主の皇子が、三種の神器を持って芳野に逃たという情報をえることになる。
赤松家の旧臣たちは、幕府に、三種の神器の奪還が成功した暁には、赤松家の再興を許可するという確約を得る。
その後、吉野に入り、嘉吉の変で北朝での身の置き場がないので南朝に鞍替えしたと説明し、後南朝で、地位を得ていった。
1年が過ぎ、神器のありかを突き止めた旧臣達は、奪還計画を練る。
金蔵主の皇子を殺害し、神器を奪った旧臣達だったのだが、持ち出しの途中で、主要人物のほとんどが、途中で殺害されてしまい、神器は奪い返されてしまう。
その後、生き残ったわずかな旧臣は、北朝の大和の国人、越智氏の下に逃げ込み、越智氏の軍勢と共に、吉野に攻め込み、神器を奪い返すことに成功したのだった。
その後、この功績によって、赤松満祐の弟、赤松義雅の孫、赤松政則が、加賀の半国守護になる。
平時にこれだけ劇的な功績を挙げながら、播磨で再興できず、1国ではなく、半国の守護になってしまったのは、それだけ山名宗全の圧力が強かったということだろう。
それでも、半国守護になれたのは、管領の細川勝元が、山名宗全と対立し始めていることがわかる。
<応仁の乱>
再興した時はわずか3歳だった、赤松政則も、すくすくと成長し、元服にこぎつけることになった。
加賀の統治は、当初こそ潰された前任の富樫家の旧臣の反乱が多発したのだが、管領の畠山氏の助力もあり、また、赤松家遺臣の尽力もあり、徐々に安定してきていた。
とはいえ、未だ未成年の政則に発言力などなく、専ら傅役だった浦上則宗が、政務を代行していた。
則宗の兄、浦上則永は、嘉吉の変の首謀者の一人なので、則宗としては、兄たちのせいで赤松家に多大な迷惑をかけた為、なんとか、その詫びをしたいという気持ちだったのだろう。
この浦上則宗が、そこそこ程度の人物であったならば、赤松家は、加賀半国守護のまま、後に一向一揆に巻き込まれ、一揆勢に飲み込まれることになっただろう。
加賀半国守護が安定した頃、京都では、斯波家と畠山家のお家騒動に端を発する、応仁の乱が巻き起こることになる。
西軍は、赤松家にとっての仇敵、山名宗全を盟主に集まりだすことになる。
それを見た浦上則宗は、お家再興運動の仕上げと、山名宗全と対立していた、政所執事の伊勢貞親に接近するのだが、文正の政変で一旦は失脚することになる。
だが、このような強権を使いまくる宗全に苛立った管領細川勝元は、反山名宗全勢力をまとめ上げ、東軍を結成して、対抗していくことになる。
浦上則宗は、京都で東軍として活躍しながらも、浦上家臣を播磨に向かわせ、播磨で反乱を起こさせた。
当初こそ、辻々の放火や、各邸宅の襲撃恫喝程度で終始していた、応仁の乱だったが、周防の大名大内政弘が西軍として入京してから、激しさを増すことになる。
その中で、浦上則宗は活躍し続けた。
一方で、播磨で反乱軍を指揮して、山名軍に抵抗していた赤松家分家の宇野政秀も、完全に播磨を掌握し始めていた。
途中、応仁の乱は、膠着するのだが、その状況を打破する出来事が起きる。
それが、越前守護代朝倉孝景の寝返りなのだが、当初、その交渉は、伊勢貞親が行っていた。
ところが、伊勢貞親は、途中で謀反の嫌疑により失脚。
その後の朝倉孝景の交渉を、浦上則宗が引き継いだ。
そして、見事引き抜きに成功するのである。
これにより、膠着は解消され、一気に東軍有利に戦況は傾いていくことになる。
この浦上則宗の抜群の功績により、赤松家はついに、播磨の守護に返り咲くことになったのである。
<四面楚歌>
なんとか播磨、備後、美作という、旧領を回復した赤松政則だったのだが、親戚の反応は、極めて冷ややかだった。
彼らは、嘉吉の変護も、生き延びる為に山名氏の支配を受け入れており、本家がアホなことをしなければ、こんな苦労などせずに済んだと考えていた。
一門の中には、本家を捨てることで、足利義教に優遇されていた者もいたわけで、そんな家からすれば、余計なことをしたとしか感じなかった。
そうした親戚が、次々に反乱を起こし、本家の赤松政則がモグラ叩きのように討伐をするということを繰り返さねばならなかった。
その結果、幕府への交友が疎かになり、赤松本家の影響力はどんどん低下していた。
さらに問題だったのが、「お家再興」という、究極目標を達成してしまった家臣団が、派閥を作り、いがみ合い始めてしまったことだった。
つまり、やっとのことで復興した赤松家だったが、その内情はズタボロだったということである。
3国を奪われたといっても、隣国山名家は、未だに中国の雄であり続けており、応仁の乱後、戦国時代に突入した中国地方では、国境線は常に山名家の侵攻に晒され続けた。
だが、そこはさすがに、「六分の一殿」山名家の御曹司の山名政豊(宗全の孫)と、マイナスからお家再興を果たした赤松政則とでは、くぐってきた修羅場の数が異なり、山名家は、内部反乱を起こされ侵攻もままならなくなっていた。
<赤松政則の失墜>
応仁の乱が終わり、世の中は、下剋上、弱肉強食の世界となってきている。
鎌倉時代では、備前の地頭をしていた松田家は、室町時代以降、赤松家の被官となっていた。
応仁の乱でも、松田家は、東軍に属し、赤松家の再興に尽力し、備前の守護代に任じられていた。
松田元成は、自分の家を保つため、軍備を備え、赤松家中で、急速に強大な勢力になっていった。
そんな備前に絶対の基盤を持ちはじめた松田家を、赤松政則は徐々に警戒し始め、徐々に脅威に感じるようになり、ついには、浦上則宗に松田家追討を命じてしまった。
浦上家が代わりに備前を制御するようになり、備前を追い出された松田元成は、山名政豊を頼って、備前に復帰しようとした。
浦上則宗から援軍を要請された、赤松政則は、これを見事に撃退。
これに気を良くした赤松政則は、軍を2つに別け、1軍を浦上家の備前福岡へ向かわせ、もう1軍は、山名の本拠である但馬へ侵攻させた。
本拠を突かれれば、軍を引かざるを得ないと考えたのだろう。
軍略家としては、中々の戦況把握力ではあったのだが、いかんせん、但馬侵攻軍がぜい弱すぎた。
2つに別けた軍は、どちらも各個撃退され、備前福岡城はあっさり陥落したのだった。
これまでお家再興を果たした英君だと思われていた赤松政則は、この1度の失敗で、愚君と評価を一変させることになる。
援軍を使って余計な事をした挙句、援軍自体失敗した赤松政則に対し、浦上則宗は、無能者のレッテルを貼った。
浦上則宗は、赤松政則を追放し、赤松一門で、赤松政則と対立していた有馬元家や、同じく赤松一門で重臣の小寺則職と組み、赤松家の当主に、有馬元家の子則秀の子、澄則を据え、実権を握り始めた。
一方で、浦上一党が、赤松家を好き勝手しようとしていることに苛立った、一門の別所則治は、赤松政則を引き受け、両者は対立を続けていった。
<衰退>
赤松政則は、残念ながら、あまり子宝には恵まれず、「小めし」という娘が唯一の跡継ぎとなってしまっていた。
赤松政則が亡くなると、赤松一門と浦上宗則など重臣たちは、「小めし」に、遠縁の七條赤松家の義村を婿に迎えさせ、赤松家の当主に据えた。
赤松政則が没して、わずか数年後、浦上宗則も没した。
浦上宗則には兄弟も後継者となる男児もいたのだが、ここまでの過酷な戦乱の日々に、全員に先立たれてしまっていた。
そこで、応仁の乱以降、管領職を握り続けていた細川京兆家の家宰、安富元家の子を養子とし、後を継がせることになる。
ところが当時、嘉吉の変で行方不明になっていた兄、則永の子、浦上宗助が、叔父に代わり各地の守護代を兼務しており、赤松家の中では、宗助の子村宗が権力を握るようになっていった。
当初こそ、赤松義村は歳若く、浦上村宗など先代赤松政則体制の家臣団の専横に任せていた。
赤松義村は、成人すると、一門の重鎮小寺則職と共に、新たな体制作りを始める。
筆頭家老に、浦上村宗と小寺則職を据え、七條赤松家の家臣を家老に付けた。
だが、その体制に、浦上村宗を牽制する狙いがあるのは明白で、浦上村宗は、嵌められ、居城の三石城に蟄居することになってしまった。
赤松義村は、専横著しい浦上家を潰すチャンスと見て、小寺則職と共に、浦上氏を攻めた。
浦上村宗は、以前赤松家に追討された松田元成の子、元藤の子元陸と手を組んでおり、包囲軍の後方を突かれ、撤退を余儀なくされた。
赤松義村は、小寺則職に、再度、浦上氏追討を命じる。
ところが、浦上家の配下に、宇喜多能家(豊臣家五大老宇喜多秀家の曽祖父)という名将がおり、赤松軍の後方を、少ない兵でゲリラ活動し攪乱。
赤松軍は再度、撤退を余儀なくされてしまったのだった。
この敗戦により、赤松家と浦上家の権力バランスは完全に逆転。
赤松義村は、強制隠居させられることになり、赤松家の当主は嫡男の幼少の赤松政村(晴政)が継ぐことになった。
その後、状況を変えようと目論んだ赤松義村は、浦上村宗にあっさりと暗殺されている。
もはや、赤松家は、浦上家の従属のような状況となる。
この後、戦国時代は、さらに赤松家と浦上家の仲を拗らせていくことになる。
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黒田家 その1
http://kazwak.exblog.jp/30277497/
2020-11-01T16:25:00+09:00
2020-11-27T06:08:28+09:00
2020-11-01T16:25:44+09:00
kazwak1
中国
室町幕府が崩壊し、戦国時代に突入した最大の原因は、応仁の乱だと言われている。
(関東では、永享、享徳、長享の3合戦で、公方と管領が争いまくり崩壊)
それまで、守護職には、しかるべき家格の家がついていた。
三管領家、四職家や、一門衆などが、そのしかるべき家格の家である。
室町幕府の支配構造である、「将軍ー(管領)ー守護ー(守護代)ー国人」という体制が崩れなかったのは、各カテゴリーから上に這い上がること(下剋上)が無かったからである。
西軍で活躍した国人の中に、朝倉孝景という人物がいた。
斯波家の越前における守護代を務めていた人物である。
応仁の乱の前半は、基本的には、京の屋敷を攻め立てるか、辻々に放火するか程度で、戦略や戦術はあまり発揮される事が無かった。
にも関わらず、優秀な指揮によって、圧倒的な存在感をしめしたのが、この朝倉孝景だった。
東軍陣営は、朝倉孝景を寝返らせれば、膠着した戦況が有利に傾くと考え、越前守護を餌に寝返らせることに成功した。
この出来事により、各地域に数多いる国人は、自力さえあれば、大名になれるかもしれないと、野心をむき出しにすることになった。
しかも、応仁の乱の後期は、上洛した大名の地盤を崩そうと、どちらの陣営も各地の国人を扇動した。
それによって、それまで大名の傘下になかった、独立した国人も、応仁の乱に巻き込まれ、結果、全国各地が「やらなければやられる」という戦国時代の雰囲気に陥ることになったのだった。
とはいえ、国人には代々の家人という者がいない。
そこで国人たちは、自分の親戚や、地元の夜盗、自分よりも弱小の国人を、自分の家人に引き入れていくのだが、家格にこだわらず、能力主義で採用する国人が多かった。
当然、能力のある者というのは、それなりに出世欲の高い者で、結局、新たに召し抱えた家人が、更なる出世の為、国人の家を乗っ取ったりした。
こうして、下剋上はどんどんエスカレートしていくことになり、それを、室町時代特有の重臣連合とは異なる、独裁体制で束ねたのが織田信長で、それを全国にまで及ぼしたのが、羽柴秀吉だった。
今回は、その羽柴秀吉を天下人に導いた、黒田家のお話。
<佐々木源氏>今回の話は、大河ドラマ「軍師 官兵衛」で有名になった、黒田家を取り上げようと思うが、実際のところ、黒田家の出自はいまいちわかっていない。
あきらかにわかっているのは、官兵衛こと、黒田孝高の祖父、重隆からである。
その黒田重隆は、佐々木源氏の出だと公表していた。
佐々木源氏は、正式には宇多源氏と言い、いわゆる源氏と呼ばれる清和源氏の祖、56代清和天皇の従兄弟で、59代宇多天皇を祖とする源氏である。
宇多天皇の皇子、雅信王が源姓を賜り、雅信の孫、源成頼の頃から武家として活動するようになり、近江佐々木庄(滋賀県近江八幡市、安土周辺)に定住。
以降、佐々木氏と呼ばれるようになり、清和源氏と行動を共にし、平清盛一党に敗れ、共に没落してしまった。
時の当主佐々木秀義は、奥州に落ち延びる途中、舅の渋谷重国の渋谷庄(神奈川県藤沢市湘南台駅付近)に住んでいた。
そこで、源頼朝が伊豆で挙兵したことを知ると、4人の子供たちを頼朝の側近として仕えさせ、侍大将として、功績を挙げさせた。
秀義の三男、高綱は、宇治川の戦いで、源頼朝の参謀、梶原景時の子、景季と壮絶な先陣争いを繰り広げている。
定綱、経高、盛綱、高綱の4兄弟は、源頼朝の挙兵から、鎌倉幕府の開府と、平家打倒、奥州遠征と、一連の政変の中心人物であり続けた。
<承久の変>
祖地近江佐々木庄以外にも、各地に領地をもらうことになった佐々木兄弟なのだが、梶原景時、和田義盛、北条時政という、政治家武士からは煙たがれ、頼朝死後の政変からは無縁となっていた。
ところが、頼朝死後、十三人の合議は、頼朝の子を蔑ろにし、頼家、実朝と後継者に不慮の死を遂げさせ、幕府を私物化していた。
それに対し、朝廷は、そんないい加減なことをするなら、関東の幕府制度を辞めて、朝廷の直轄支配に戻させてもらうと、全国の地方領主に討幕の勅令を下すことにした。
四国などの守護をしていた佐々木兄弟の元にも、後鳥羽上皇から討幕の勅命が下った。
定綱の長子広綱や経高といった、西国の守護は官軍に参加した。
定綱の四男信綱のような守護になっていない者は、幕府軍に参加した。
この承久の変は、西国の多くの武士が官軍に参加したとはいえ、そもそも天皇に徴兵のノウハウが無く、それなりに兵は集めたものの、参加した者たちに報酬の約定も無く、部隊の集結もグダグダだった。
一方で、幕府軍に参加した東国の武士たちは、活躍すれば報酬が得られるという実績があり、北條家が各部隊をしっかり指揮していた。
官軍は尾張で迎撃を受け、それ以上の進軍を阻まれると、京へ後退し宇治川、瀬田川の西に防衛戦を敷いた。
琵琶湖からの瀬田川、宇治川が長雨で濁流となっており、天然の防壁と化していて、幕府軍の侵攻を狭い橋で防ぎ、兵数の少なさをカバーした戦いをしていた。
それを佐々木信綱は、大将の北条泰時の援軍を得て、泰時の長男時氏と共に信綱の長男重綱が、宇治川を渡河しきり、幕府軍を勝利に導いている。
承久の変後、佐々木信綱の領土は、長男の重綱ではなく、三男の泰綱が引き継ぐことになる。
ところが、長男の重綱がこれに不満を持ち、泰綱は領土の一部を重綱に引き渡し、自身は家督を継ぐことになる。(のちに京都で六角通りに屋敷を建て、六角氏と呼ばれる)
また、信綱は、北条義時の娘を娶っており、北条義時の娘の子氏信も、北条氏の縁者として出世し、近江に領地を得ることになる。(のちに京都で京極高辻に屋敷を建て、京極氏と呼ばれる)
鎌倉幕府が討幕されると、京極家の当主高氏は、足利尊氏に接近し、室町幕府開府に抜群の功績があり、飛騨と出雲の大名として、後に侍所長官(軍のトップ)に就く四職(京極、赤松、一色、山名)の1家として、幕府の重鎮となっていく。
同族の六角家の当主氏頼も、おこぼれ的に近江守護を命じられ、京都の隣の大名として、絶大な影響を持つことになる。
<黒田家>
京極道誉の伯父に、宗満という人物がおり、領地の黒田村(滋賀県長浜市木之本町黒田)から黒田宗満と呼ばれ、守護の六角氏に仕えていた。
応仁の乱後、足利義視の子義材が将軍に就任していたのだが、明応の政変で追放され、関東公方になる予定だった、堀越の足利政知の子義澄が将軍に就任することになった。
足利義材を追放した、管領の細川政元だったのだが、3人の養子の後継争いに巻き込まれ殺害される。
足利義材は、名前を義尹と改め、細川家のお家騒動を利用し、細川高国を味方に引き込み、長門の大内義興、尼子経久の軍と共に、将軍職を奪還しに、京へ攻め込んだ。
管領の細川澄元は、将軍職を義澄に戻そうと兵を集め、京に攻め込み、両軍は船岡山で激突した。
この船岡山の戦い前に、義澄派だった六角氏は、義稙(義尹から改名)派に鞍替えし、義稙陣営で参戦。
黒田家の当主黒田高政も出陣したのだが、血気にはやって抜け駆けしてしまう。
戦いの数日前に足利義澄が病没し、細川澄元陣営の士気が落ちており、戦そのものは義稙陣営の勝利で終わったのだが、足利義植は、黒田高政に激怒。
黒田高政は、六角家を出奔せざるをえなくなるのだった。
戦に勝ったのに、処分されたのだから、黒田高政の抜け駆けは、敗戦しかねない酷いものだったのだろう。
近江を追い出された黒田高政は家族たちと共に、縁者を頼って、備前へ向かうことになる。
恐らく、黒田高政は、旅の途中で力尽きたか、縁者を頼ることができなかったらしく、一族は手前の播磨に流れついた。
高政の子、重隆は、家中秘伝の目薬を売って、生計を立てていた。
近江は、甲賀の忍者の郷を有しており、広く医学、薬学が知れ渡っていた。
明智光秀も、徳川家康も、近江で薬学を学んでいるし、近江の薬学を学んで特産にしたのが、薬売りで有名な越中だったりもする。
黒田重隆は、材料となるメグスリノキを見つけそこから作成した目薬を売る事で、ひと財産を作り出した。
一介の浪人にすぎなかった黒田重隆は、財力によって国人となり、備前の守護、赤松政秀に仕える事になるのだった。
黒田重隆は、赤松家の赤松政秀の家臣ではなく、赤松家の一門で、御着城主小寺政職に仕え直していて、重臣となっている。
<吉備>
黒田高政が頼った備前は、古くは「吉備」という部族が住む地であった。
そこに7代孝霊天皇の皇子、吉備津彦命が遠征軍として派遣されている。
その頃の吉備の国は、「温羅」という渡来人グループが瀬戸内海に住みつき、海賊行為を繰り返しており、疲弊しまくっていた。
吉備津彦命は、吉備で数人の族長(猿飼、犬飼、鳥飼)を雇い、吉備で渡来人を撃退し、海を渡り、瀬戸内、讃岐と追撃し、本拠地を攻略し、降伏させることに成功した。
後に、吉備の国は、大和朝廷に従うことになり、備前、備中、美作、備後の4つの国に分割統治されることになった。
平安末期になると、東隣の播磨には、平清盛によって、福原(神戸)という都が作られ、遷都もされ、平氏の政務拠点となっていた。
福原の大和田泊は、宋との貿易港として空前の繁栄を遂げており、海岸線が入り組んでいた山陽では、陸路よりも、瀬戸内の海路が発達していた為、中継港や、補給港、風よけ港も、同様に発展していくことになる。
そうなれば、当然、荘園も増え、その荘園を守護する武家も増えていった。
<赤松家>
黒田一族が流れ着いた播磨の大名、赤松家は、村上源氏の一族である。
62代村上天皇は、佐々木氏の祖、59代宇多天皇の孫で、村上天皇の皇子の具平王や致平王や為平王の子たちが源姓を賜っていった。
清和源氏、宇多源氏が武家として地方でやんちゃし、巨大軍閥に成長していった一方、村上源氏の多くは公家志向で、地方に下向した家も大きなコミュニティを作る事ができなかった。
宇多源氏の武家たちは主に西国に領土を得ており、平安時代末期には、西国の支配力の強かった平家に、見事に頭を押さえられてしまっていた。
平家が鎌倉の頼朝軍に屋島で敗れた後も、彼らは見向きもされず、壇ノ浦で滅び去った後も、奥州征伐に加わることすらできなかった。
結局、村上源氏の諸家は、鎌倉時代を通して、小領主に甘んじていたり、村上家のように瀬戸内海賊になったりしていた。
そんな没落していた村上源氏の小領主は、後醍醐天皇が幕府に不満を抱いていることを知ることになる。
伯耆の名和長年や、播磨の赤松則村(円心)は、ここが家運の賭け時と見て後醍醐天皇に運命を委ねた。
ところが、賭けた先の後醍醐天皇は、策略もザルだし、あっさり隠岐に島流しになるわで、正直ぱっとしない。
だが、粘り強くサポートし続け、同志の楠木正成の奮闘もあり、後醍醐天皇のへっぽこ討幕運動は、徐々に現実味を帯びていくことになる。
だが、このままでは、承久の変の二の舞に終りそうと思われたのだが、運は後醍醐天皇に味方する。
鎌倉幕府の朝廷討伐軍の総大将、北条(名越)高家が戦死、副将の足利高氏が寝返ったのである。
朝廷討伐軍の崩壊は、関東でも幕府に不満を持つ御家人を結集させることになった。
足利高氏が、赤松円心らと共に、京都の幕府機関である六波羅探題を攻め落とすと、関東では、新田義貞たちが鎌倉府を攻め落とし、鎌倉幕府は滅亡することになった。
<建武の親政>
承久の変でも、朝廷が集めた武家には、恩賞の確約が無かった。
今回の建武の親政も、恩賞がかなりおざなりになっていた。
後醍醐天皇は、赤松や名和といった悪党と呼ばれた小領主を蔑ろにし、鎌倉御家人と、北畠顕房、顕家親子のような公家武士を重宝した。
自分の皇子を、各地の要地に派遣し、護良親王を征夷大将軍に就任させ、軍務の統帥を付与。
成良親王を鎌倉府の将軍とし、執権に足利尊氏(高氏から改名)の弟、直義を就任させ、代わりの鎌倉府を作り上げた。
さらに、義良親王を東北に下向させ、腹心の北畠顕家を補佐につけ、東北に鎮守府を作り出した。
だが、そこには、赤松円心が期待したような、没落武家の成り上がりはおろか、討幕の恩賞すら満足にはもらえなかった。
ゲリラ戦術で幕府軍を翻弄し、討幕軍としての軍功も抜群だったにも関わらず、その功績は、ほとんど評価されなかったのだった。
その頃、北条の残党は、鎌倉幕府の滅亡後、森深い信濃に逃れ、捲土重来を謀っていた。
諏訪神社で諏訪氏、さらに北信の雄滋野一族(海野氏や真田氏)を味方につけ、関東へ攻め込み、関東の御家人を撃ち破り、鎌倉府を陥落させた。
足利尊氏は、この中先代の乱を鎮圧しようと兵を集め、報酬として征夷大将軍の地位を要求したのだが、後醍醐天皇は、不満武士と共に鎌倉で謀反し、第二の鎌倉幕府を作る手筈だと、出陣も許可しなかった。
結局、足利尊氏は後醍醐天皇を見限り、軍を関東に向け、中先代の乱を見事に鎮圧。
この足利軍に参加していた赤松円心は、ここまでの流れを見て、後醍醐天皇に完全に見切りをつけた。
以降、赤松円心は、足利尊氏の腹心の一人として、南朝勢力と戦い、観応の擾乱でも、足利尊氏陣営の貴重な実戦指揮官として活躍するのだった。
<嘉吉の変>
赤松円心は意外にも長生きで、円心死後、息子たちも相次いで亡くなっている。
円心の孫、赤松義則は、土岐家を討伐したことで、足利義満の信頼を得ることになり、侍所所司という、軍政長官に就任している。
室町幕府は、足利尊氏が、息子の義詮を全く評価しておらず、独裁制にすると、鎌倉将軍のようにあっさり暗殺されるだろうと危惧しており、「幕府は大名みんなのもの」だから、「みんなで大切に守って行こうね」という方針で運営していった。
その方針そのものは誤りでは無かったのだろうが、結果として大名の発言力が、圧倒的に強くなり、各大名は大軍閥のようなやっかいな存在になっていった。
その為、足利義満は、各大名に難癖をつけ、謀略をめぐらせ、軍を差し向け戦力を削いでいた。
つまり、室町幕府にとって、将軍の補佐をする「管領」、軍政のトップ「侍所所司」の2役は、極めて重要な役職だった。
そのうち、管領は細川、畠山、斯波の三家で持ち回り、侍所所司は、赤松、山名、一色、京極の4家で持ちまわっていった。
つまり、管領の三家(三管領)は、将軍家の次に家格が高く、侍所所司の四家(四職)はその次に家格の高い家となっていった。(その次は御一家の吉良、今川、仁木、桃井など)
天皇になりそこなった足利義満が亡くなり、ボンクラの足利義持が将軍に就任すると、将軍の発言力はあっという間に下がり、管領の発言力が上昇。
足利義持は、途中で息子の足利義量に将軍位を譲るのだが、義量は義持より先に早世。
その後、義持は関東公方の足利持氏を養嗣子にするのだが、持氏のイボ痔が悪化すると、三管領家の当主は、次期将軍をくじ引きで決めるという暴挙に出た。
選ばれた足利義教の心情は複雑だった。
選んでもらった管領家には頭が上がらず、やもすれば舐められることになった。
結果として、足利義教は、強権を発動しまくることで、管領の権力に対抗していくことになる。
延暦寺を焼討したり、関東公方を攻め滅ぼそうとしたり、大和の国人を潰したりと、暴君のような政治活動は、多くの大名を怯えさせた。
そんな「万人恐怖」と恐れられた足利義教が、赤松屋敷にやってくることになった。
足利義教は、赤松家の分家を重用し、本家を徹底的に軽んじていた。赤松本家からしたら、難癖をつけて本家を潰して、分家を据える魂胆だといぶかっていた。
実際、足利義満の統治で土岐氏が同じような目に合っていたため、もし義教が意図的ではなかったとしたら、軽率も甚だしかっただろう。
ある日、赤松満祐は、足利持氏の討幕運動に始まる一連の関東の争乱の収束を祝うという名目で、足利義教を京の自邸に招いた。
そこで、足利義教はあっさり首を跳ねられることになるのだった。
赤松満祐は、領国の播磨に帰り、軍備を整え、防戦の準備に入ろうとした。
ところが、隣国但馬の大名山名持豊(宗全)は、すぐさま兵を播磨に入れ、赤松家の領国だった、播磨、備前、美作を攻め取り、西国の大半の守護に就任。
こうして、赤松家は滅亡してしまったのだった。
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明智家 その5〆
http://kazwak.exblog.jp/30241234/
2020-10-03T02:00:00+09:00
2020-10-17T08:16:19+09:00
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近畿
明智光秀には、光慶と光泰という男児がいたらしい。織田家の諸将は、織田家が急拡大した関係で、その戦闘に日々追われるような、ワーカーホリックな生活を送っており、あまり家庭を顧みれるような状況ではなかった。
結果的に、出世した人ほど、後継者不足に悩まされており、多くの男児を設けても、池田恒興のように、戦死した者も多く、ただでさえ病での夭折が多い時代にあって、成人して天寿を全うできる人は、極めて少数だった。
明智光秀は、秀満の妻、細川忠興の妻ガラシアなど、恐らく妻の妻木家の熙子が女腹であったようで、娘には比較的恵まれている。
これを考えると、光慶は、もしかしたら、湯殿などの庶子であった可能性もあるだろう。
明智光秀といえば本能寺の変であり、そのきっかけの一つとして、拠点を召し上げられそうになり、自身は高齢なのに、後継者がまだ幼く、明智家の将来に不安を抱いたからというのがある。
光慶は、本能寺の変の頃13歳くらいだったといわれている。
ガラシアが20歳くらいだったということで、ガラシア達が光秀が幕臣細川藤孝の陪臣として朝倉家に身を寄せていた頃の子に対し、光慶は織田信長に仕官した後の子と言われている。
年齢的に言えば、眞田信繁、信之兄弟、伊達政宗、黒田長政、立花宗茂あたりと同年齢帯ということになる。
ただ、光秀の生年はいくつか説があるが、1516年説とすると、53歳の時の子ということになり、いくらなんでも、晩年の子すぎる気もするし、そもそも光慶がガラシアより年上という説もある。
光慶も光泰も、共に山崎の戦いの頃は、母と共に近江坂本城にいたようで、明智秀満と共に、籠城し、自害したとされているが、逃れて僧になったとも言われている。
以降、明智一族は「明田」姓を名乗っていたようで、「本能寺の変の427年目の真実」を執筆した明智憲三郎氏の曽祖父滝朗氏が、明智に復姓している。
この明智(明田)滝朗氏が、明智光秀、もしくは秀満が南光坊天海という説を唱えた人物だったりする。
<四国情勢>本願寺との調停がなり、石山御坊が明け渡され、佐久間信盛軍団が解散になり、明智光秀軍団が誕生している。
畿内平定軍として組織された南海道軍である明智軍団は、四国の大名との折衝を担当している。
平安時代、四国は、貴族の荘園と、瀬戸内の海賊の拠点という2つの顔があった。
四国は、文字通り、讃岐(香川県)、阿波(徳島県)、伊予(愛媛県)、土佐(高知県)の4国からなっており、中央には広い山岳地帯が広がり、住民が居住できるのは、山岳地帯の裾野部である海岸沿いか、河川下流部となっている。
その為、4国各国の居住区はかなり離れており、行き来は概ね海路であった。
平安時代末期、平清盛は、播磨に福原京(神戸)を建設し、瀬戸内海の制海権を把握しながら、宋と貿易し、その資金を活用し、京での権力を保っていた。
その関係で、源平の戦役では、四国は平家の最重要拠点となり、平清盛がマラリアで病死し、平宗盛が後を継ぎ、京を追放された際に、最終防衛地となった。
残念ながら、讃岐屋島(現在は埋め立てで超内陸)で平氏軍は源義経軍に大敗北し、四国を放棄し周防へ逃れ、さらに追撃を受け続け、九州に逃れる壇ノ浦で集団入水自殺をして、平氏は失脚してしまう。
その後、鎌倉幕府が建てられると、佐々木源氏の一族が四国を支配するのだが、承久の変で佐々木氏は後鳥羽上皇軍に所属し没落、小笠原家他いくつかの御家人が鎌倉から派遣され支配されることになる。
鎌倉幕府が倒れ、室町幕府が建てられると、四国は三管領の細川家によって支配される。
南北朝の争乱、観応の擾乱で、伊予は瀬戸内水軍(海賊)の豪族、河野氏の支配になるも、讃岐、阿波、土佐は細川家のメインの封土だった。
三管領筆頭の実力を誇った細川家だったが、応仁の乱と、それに続く細川政元の3人の養子の争いである永正の錯乱で統治基盤はガタガタになってしまう。
まず、土佐で、応仁の乱で都落ちした一条家他、豪族の割拠争乱が始まる。
伊予では、大内、大友の圧迫により河野家の支配が緩み、そこに西園寺家と宇都宮家が勃興し、更に瀬戸内水軍の一部が河野家の管理から離れ、割拠争乱が始まる。
細川家中で、阿波の守護代を務めていた小笠原家の一族、三好長慶は、細川晴元を攻め滅ぼすと、讃岐を弟の十河一存、阿波を弟の三好実休によって支配させ、自身は畿内を制し、将軍足利義輝と対立し、天下人となる。
その後、弟の十河一存、三好実休、嫡男の三好義興が立て続けに病死し、三好長慶も病死すると、三好政権は完全に崩壊。
大和は松永久秀、摂津、河内、和泉は、池田家、三好三人衆(一族の三好長逸、宗渭、岩成友道)、十河一存の子三好義継、讃岐は実休の子、十河存保、阿波は実休の子長冶に分割統治されることとなり、さらに混乱に拍車がかかる。
(この後、松永久秀と、三好長慶の後継者、三好義継は織田家に降伏している)
割拠状態の四国は、その後3つの勢力に集約されていく。
まず、伊予に、中国の巨人毛利家の水軍、小早川隆景が侵攻し、制圧していく。
次に、土佐で豪族の中から、長宗我部元親が頭角を現し、他の豪族を次々に支配していく。
長宗我部元親が土佐を制圧した頃には、毛利水軍が、織田家の九鬼水軍にボロボロにされた頃で、伊予河野家の後ろ盾である毛利家の支援が手薄になっている頃だった。
長宗我部元親は、細川家残党を支援しながら、三好勢力を掠め取っていき、強固に抵抗していた十河家も滅亡寸前となっていた。
<長宗我部元親>
遅れてきた四国の龍、長宗我部元親は、念願の四国統一目前で、三好に替わる天下人、織田信長の助力を仰ごうとしていた。
そうしなければ、武田家のように、圧倒的な戦力で踏み潰されるのは、目に見えていたからというのが大きいのだが、織田家の実力者明智光秀の部下、斎藤利三の姪を妻に迎えていたというのも大きかった。
外交の使者になったのは中島可之助という人物だった。
この人物が選ばれたのは、織田信長が、羽柴秀吉という下賤の成り上がり者を好んでいることを知ったためだろう。
同じく成り上がり者だった可之助は、織田信長に謁見すると、信長から「鳥無き島の蝙蝠」と言われる。
これが、主、元親を、ロクな人物もいない四国で、王様顔してる痴れ者だと罵ったとわかると、「蓬莱宮のカンテン」だと訂正した。
つまり、四国という素晴らしい土地を征服してちょっと天狗(寒天=天草(天狗さ))になってるにすぎませんと。
こんな機転の利く家臣を見出しているなら、余程の人物なのだろうと感じた織田信長は、元親が溺愛している嫡男に信の字を与え信親を名乗らせ、烏帽子親にまでなった。
同盟を破らなければ、好きに他国を攻め取って構わないという約定も交わした。
そして、以降、明智光秀を、交渉の窓口としたのだった。
ところが、滅亡寸前に見えた十河存保は、三好康長(長慶の叔父)を織田信長に謁見させた。
三好康長は、さすがに土佐の田舎者と違い、畿内の情勢に富んでいた。
名器と名高い「三日月葉茶壺」を献上し、十河家は、織田家に臣従するから、長宗我部の進攻から守って欲しいと懇願した。
織田信長は、両者を天秤にかけ、四国を直轄統治する方を選んだ。
こうして、明智光秀は南海道方面軍を解任され、新たな南海道方面軍には、織田信長の子、神戸信孝が就任することなった。
副将は、長く織田家のNo3を務めてきた、丹羽長秀。
この時点で、武田家は既に滅亡し、関東の雄北條氏政が降伏しており、新たに関東管領軍団を組織し、瀧川一益が軍団長として任命されている。
正式に軍団扱いにはなっていないが、信長の次男、北畠具豊(信雄)も、伊勢で準軍団を組織されている。
<本能寺の変>
南海方面軍を解任された明智光秀は、丹波とその周辺の城数か所で、非常に規模の小さい山陰道方面軍を組織された。
攻略先は、毛利家、山陰方面軍の吉川元春軍団。
毛利家攻略のメインは、山陽軍の羽柴秀吉軍団で、明智光秀軍団は、羽柴秀吉軍団のサポートに過ぎなかった。
仮に、毛利家の攻略を羽柴秀吉が終えたとしたら、恐らく羽柴秀吉軍団は、そのまま北九州の攻略を担当されるだろうし、明智光秀の軍団にそれ以上の命令は無かったであろう。
さらに、亀山城、福知山城など丹波一国及び近江坂本城が召し上げになったという説があるが、さすがに毛利家との戦い以前に、軍団拠点の没収はあり得ないだろう。
新規軍団組織の数日後、織田信長は、徳川家康を酒宴に招いた。
表向きは、徳川家康のこれまでの援兵に対する労いであったのだが、裏は恐らくそうでは無かっただろう。
この時点で、織田信長は、長宗我部家の同盟を一方的に解消したように、同盟者はもう不要であると思っており、恐らく徳川家もこの後、何かしらの仕打ちがあったことだろう。
徳川家康も、家臣も、織田信長の酒宴の誘いを、危険だと感知していたらしく、露骨に引き留める者もいた。
酒宴は、明智光秀がエスコートしていたのだが、明智光秀は、新鮮な地の物をふんだんに使ってもてなそうと考えた。
織田信長は、その酒の肴の中に鮒ずしがあることにイラついた。
人をもてなすのに、こんなクセの強い物を用意する馬鹿がどこにいるかと。
結局、酒宴は堀秀政が代わりに努めることになった。
明智家では、何日もかけて、軍団総出で準備をしたのに、その結果は、担当の解任という結果になってしまったのだった。
織田信長は、羽柴秀吉から、山陽道の援軍を要請されており、武田家の時の長篠の戦いのように、織田信長に毛利家に止めを刺す戦をしてもらおうとしていた。
軍団の兵の集結地を京都とし、織田信長は、本能寺に待機していた。
武田家を滅亡させ、攻略目標を達成した織田信忠は、直轄部隊を率いて、安土城を出発し、京の二条城に駐留していた。
明智軍は、織田信長の行軍よりいち早く、山陰道への出陣支度を終え、丹波亀山城から伯耆、出雲へと出陣するところであった。
斎藤利三、明智秀満、明智光忠、藤田行政、溝尾茂朝の5人に、明智光秀は、自分の本心を告げた。
5人の家老は、これまでの事を思い出し、反対する者はいなかった。
明智軍は、山陰道では無く、山城、本能寺に向かうことになったのだった。
本能寺は火に包まれ、大炎上、焼け落ちた。
だが、織田信長の遺体は発見できなかった。
本能寺の延焼を見て、織田信忠は父を救おうとしたが、家老の村井貞勝に止められた。
織田家の当主は信長ではなく貴方なのだから、御身の安全を優先すべきであると。
二条御新造は、京都でも要塞化されている拠点であり、ここで迎い討つことにした。
だが、予想以上に攻め手の明智軍は数が多く、織田信忠軍はひとたまりもなかった。
結局、織田信忠の二条御新造も延焼。
こちらも遺体を発見することはできなかったらしい。
<征夷大将軍>
主君を討った明智光秀は、なんとか自分を正当化しなければならないと考えた。
織田信長は、その申し出を断ったというが、美濃源氏の出を宣伝している明智光秀にとって、征夷大将軍の就任は、ごく自然なことに感じていた。
征夷大将軍になってさえしまえば、周囲は自分に従うしかなくなるだろうと。
各軍団長も、織田信長の死を知り、反撃に出た攻略先にやられれば、自分を討つこともできないだろうし、自分のいう事を聞くしかなくなるだろうと考えた。
織田信長の死を、各方面に知らせに知らせまくった。
だが、現実は明智光秀の思惑通りにはいかなかった。
将軍宣下はなかなかスケジュールが合わず先延ばしになり、その間も畿内では明智光秀に抵抗を続ける家がいくつもあった。
織田信長の死を知った畿内各地には、土民が一斉に落ち武者狩りを始め、治安が完全に崩壊した。
京都の町も荒れてしまい、公家達の明智光秀の統治能力に不安を抱いてしまう結果になっていた。
本能寺、及び京都御新造で、織田信長、信忠親子のクビを見つけられなかったのが、生存説として流布されており、娘婿である細川家は、明智家に追随することを良しとせず、同じく娘婿(実子とも)の筒井順慶も拒絶していた。
更には近江日野の蒲生家のように、徹底抗戦の態度を貫く小領主もあり、本能寺の変が、全く支持されていないことを肌で感じていた。
やっと征夷大将軍に就任した明智光秀の元に、急報がもたらされる。
羽柴秀吉の軍団が京都めがけて進軍しているということだった。
<山崎>
実は毛利家に、本能寺の変の報は、山陽道方面から入っており、吉川元春は羽柴秀吉を後ろから討つべきと声高に進言しており、羽柴秀吉も極めて危険な状況だった。
だが、ポンコツ軍師小早川隆景は、攻城戦だけが上手な羽柴秀吉に、明智光秀を討てるわけないと考え、もし討てたとしたら、とんでもない恩が売れて大儲けなどと考えてしまっていた。
しかも羽柴秀吉が攻略していた高松城は、仲の悪い兄吉川元春の重臣清水宗治の城。
小早川軍は何も痛むモノが無いなどと、器の小さい計算をした。
結局、当主の毛利輝元は、賢しい叔父のいう事だからと納得。
激怒した吉川元春は隠居し、毛利元就没後から、なんとか手を取ってきた両川体制は崩れてしまい、この後、毛利家は、小早川隆景の元、一気に家勢を落していくことになる。
羽柴秀吉は、毛利家の気の変わらないうちに明智光秀を討たねばならないと考えた。
この時、羽柴秀吉は、織田信長を招こうとして、京から高速街道を整備し終わっていた。
その高速道を一気に兵を走らせ、堺へ向かった。
そこで神戸信孝、丹羽長秀、池田恒興の助力を借り、神戸信孝を大将として、神戸信孝による弔い合戦の体裁を整え、明智光秀を討伐しに向かったのだった。
明智光秀は、これに対し、天王山の麓、山崎で迎え撃とうとした。
何故か先についた羽柴軍は山崎に布陣せず、まるで明智軍に山崎への布陣を促すような位置に布陣していた。
明智軍が布陣を整えている間に、羽柴軍は急襲を敢行、明智軍は本陣での決戦を余儀なくされた。
元々、明智光秀は、大谷吉継のような指揮官タイプの将で、本陣は後詰であり、基本的には、前線部隊を前へ後ろへと動かし、相手を突き崩すタイプの指揮者だった。
老齢の明智光秀にとって、自ら槍を取って戦うのなど、いつぶりであったろう、光秀だけでなく、側近たちも完全に浮足立ってしまった。
指揮もまともにできず、明智軍は総崩れ。
明智光秀も戦場を落ち延びることになるのだった。
近江坂本城への途中、落ち武者狩りに見つかり、討ち取られてしまった。
斎藤利三も既に捕縛され斬首されており、最後に残った明智秀満も、坂本城での籠城の末、自害して果ててしまった。
<明智伝説>
山崎の敗戦の後、落ち武者狩りから提出された、明智光秀の首は、本人とは全く似ていなかったとされ、実は明智光秀は生きていたのではないかと言われている。
徳川家康は、参謀として、石川数正、本多正信の二人を抱えており、意見の対立から、石川数正は羽柴秀吉陣営に鞍替えされている。
小牧長久手を経て、徳川家康は、伏見城へ駐留することが多くなると、二人の参謀を新たに見出している。
一人は、黒衣の宰相と呼ばれた、金地院崇伝、もう一人は、南光坊天海。
この天海が、実は明智光秀なのではないかということである。
崇伝に対し、天海は、徳川家に仕えるまで、前半生が謎とされており、明智家滅亡後、突然表舞台に現れたことが、大きな原因となっている。
羽柴秀吉が太政大臣になり、征夷大将軍になれなかったのは、下賤の出身がネックになったとよく言われている。
だが、普通に考えれば、平安時代からずっと藤原五摂家(近衛、一条、二条、九条、鷹司)に独占されてきた太政大臣の方が、下賤の出自ではなれないはずである。
一方の征夷大将軍は、源義仲、源頼朝、足利尊氏と源氏一派と源氏が就任しているとは言え、源実朝以降は皇室が就任しているし、源義仲以前は、源氏以外の武家が就任している。
結局、羽柴秀吉は、近衛家のチンピラ関白、近衛前久の養子ということにして、太政大臣に就任している。
一方で、徳川家康は、それまでは出自は不明もしくは、単に源氏としていたが、新田家の子孫を自称している。
まあ、さすがに三河の土豪酒井家の娘を夜這いした、どこぞの山伏の家とは、口が裂けても言えないだろう。
そんな徳川家康を、天海が朝廷に交渉して征夷大将軍に就かせたらしい。
これは、自分が就任した征夷大将軍職を徳川家康が継承するということで、就任をスムーズにさせたのではないかということである。
また、徳川家康没後、家康をどう扱うかという議論になり、崇伝は「大明神」が良いと主張したのだが、天海は、羽柴秀吉が「大明神」だから、縁起が悪いと、「大権現」を推している。
このエピソードを見ると、一見、天海と崇伝は仲が悪いように見えるが、若い崇伝は、天海を非常にリスペクトしており、崇伝の功績の多くは、天海との協議の上であったのではないかと言われている。
この件も、実は二人の間では大権現で決まっていたのだが、老中の意見が大明神であり、わざと悪い例として挙げたのではないかと。
この後、「東照大権現」を祀るため、日光に東照宮を建立するのだが、そこは天海の封領であり、そこの資材置き場だった場所に付けられた名前が「明智平」である。
また、日光東照宮の瓦には、徳川家の「三つ葉葵」と共に、明智土岐家の「桔梗」の紋が彫られている。
徳川家康の後継者、秀忠は、家康の父広忠の「忠」と、当時の主君秀吉の「秀」から付けられている。
その秀忠の男児は二人おり、長男が3代家光、次男が忠長と名付けられている。
次男の忠長は、父の「忠」と母の伯父織田信長の「長」から名付けられている。
では崇伝が名付けたとされる、家光はどうやって名付けられているのかと言えば、「家」は祖父家康から、「光」は明智光秀から名付けられたのではないかということである。
ここまで書いてなんなのだが、年齢を考えると、明智光秀が天海であるというのは、かなり厳しいこじ付けな気がする。
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明智家 その4
http://kazwak.exblog.jp/30206015/
2020-09-04T11:46:00+09:00
2020-09-13T08:41:03+09:00
2020-09-04T11:46:41+09:00
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近畿
なぜ室町幕府は安定しなかったのか?それは、幕府は誰のものなのかという話に繋がる。鎌倉幕府は、源実朝の死により、12人の合議制という多頭会議制を経て、北條家が他の御家人を支配する専制スタイルになった。江戸幕府も、徳川将軍家が各地の大名を支配する専制スタイルだった。これに対し、室町幕府は、足利家を盟主とした大名による連合スタイルだった。つまり、鎌倉幕府は北條家のもの、江戸幕府は徳川家のものだったのに対し、室町幕府は大名連合のものだった。
足利家にダメ将軍が連続したとしても、管領に優秀な人物が就任し、足利家の代理として、室町幕府をしきってもらえるはずだった。
ところが、初代の足利尊氏が、弟の直義と仲違いし、観応の擾乱を引き起こしたことで、実力によって地位を脅かしてもかまわないという雰囲気がでてしまう。
その雰囲気をうまく利用したのが3代の足利義満だった。義満は、各大名の発言力を正確に把握し、発言力が高まってきた大名家に難癖を付けたり、お家騒動を仕掛けたりして、モグラ叩きのように叩き続けた。義満が亡くなり、義持の時代になると、巨大組織となっていた関東府で公方と管領で権力闘争をはじめ、結果的に関東府は、半独立状態になってしまう。義満と同じやり方で大名を叩こうとして失敗したのが嘉吉の変で殺された義教。それによって、将軍は連合の盟主ではなく、名誉職になりさがってしまった。それでも、将軍、大名、国人という、組織だけは保っていて、その組織の中で誰が発言力を持つかということに終始していた。
それも応仁の乱で大きく崩れた。恐らくは、守護代で国人である朝倉孝景が、守護で大名である斯波家に代わり守護になったことであろう。これにより、国人や土豪レベルの家の出でも、能力のある人物が、容易に組織の上層に這い上がっていくことができるようになり、実力によって、守護をもぎ取ることができるようになった。
ただ、それでも、下剋上で有名な人物でも、室町幕府的な豪族連合というシステムに縛られ続けた。斎藤道三、浅井亮政なんかがその例で、結局、代替わりした後、連合が崩壊して潰れてしまった。
それを独裁システムにつくりかえたのが織田信長で、その中で成り上がったのが、足軽から這い上がった木下秀吉と、幕府の陪臣から這い上がった明智光秀だったのだと思う。
<方面軍>鉄砲頭だった幕臣の明智光秀は、戦死した森可成の替わりに坂本城城主となると、摂津高屋城の三好戦、比叡山の焼き討ち、三河長篠の武田戦と、鉄砲隊を駆使し、戦果を挙げまくっていた。
この頃になると、織田信長の年間の移動距離は、すさまじいことになっており、武田信玄の侵攻軍に対抗できなかったのは、移動による疲労もあったことだろう。
東海道、中山道といった主要街道、琵琶湖を囲む湖西線、湖東線、中山道と東海道を尾張、美濃で結んだ、後に上街道と呼ばれる街道を整備し、移動を容易にする工夫はしたものの、それでも限界はあった。
そこで、織田信長は、直轄支配から、織田信忠軍団を組織し、中山道方面軍として切り離している。
副将としては、織田家最大のピンチを凌ぐも戦死した森可成の嫡男長可と、信長の親衛隊として活躍した河尻秀隆が当たった。
「巨星」武田信玄が病死し、長篠で武田騎馬隊を撃ち破った織田家にとって、関心事といえば摂津の本願寺と、「越後の龍」上杉謙信であった。
そこで上杉謙信に当たる為に、既に役目が薄れた南近江の街道守護隊から、柴田勝家を越前を拠点に北陸道方面軍として切り離した。
副将は、織田信長の親衛隊として、軍功を重ねていた、佐々成政と、前田利家、金森長近。
また、もう1軍として本願寺の攻略軍として、同じく南近江の街道守護隊から、佐久間信盛を畿内南部を中心に、南海道方面軍として、切り離した。
副将は、近畿の梟雄、松永久秀。
織田信長の本隊は、近江や山城と言った畿内北部で、主に朝廷工作や外交、謀略と、3つの方面軍の補佐をしていた。
明智光秀の坂本城は、織田本軍に組み込まれ、丹波の波多野氏の攻略を受け持っていた。
60代になっている明智光秀にとって、山間部の丹波攻めは、かなりこたえたことだっただろう。
<波多野氏>
波多野氏の出自はいまいちよく解ってはいないが、平安時代末期には、相模の波多野庄(神奈川県秦野市)を治めていた。
源平合戦の時代になると、当主の波多野義通は、源氏のプリンス、源義朝(頼朝の父)の側近として保元の乱、平治の乱を戦った。
妹は源義朝に嫁いでおり、朝長という男児も設けているが、後に庶子扱いされ、三男の頼朝が嫡子となっている。
波多野義通の子、義常は、源頼朝が以仁王の宣旨によって挙兵した際、源頼朝に悪態をつき、参軍を拒否している。
まあ、父の没落の原因は源氏のせいと思っていたのだろう。
後に、一門の波多野義景が、源頼朝に仕え、波多野家を継続させている。
鎌倉幕府を、後鳥羽上皇が潰そうとし、承久の変が発生すると、当主の波多野義重(義景の甥)は、幕府軍の御家人とし戦功を挙げ、越前に所領を得て六波羅探題(京都の幕府の支所)の評定衆(統治会議の一員)となり、畿内の統治を担っている。
鎌倉幕府が倒れ、足利尊氏が幕府を開くと、当主の波多野通秀は、足利義詮の部下として、以降代々、評定衆を務める家となっていった。
時は下って、応仁の乱。
東軍の細川勝元の元に一人の生年が仕官する。
その青年は、波多野氏の一族で、波多野秀長と名乗っていた。
波多野秀長は、非常に有能な人物で、応仁の乱の活躍によって、丹波に領地を得ることになった。
細川勝元が亡くなっても、その子細川政元をよく補佐しており、子の波多野種通も非常に優秀な人物で、細川家に反抗的な丹波の国人たちを支配していき、次第に丹波の戦国大名へと変貌していくことになる。
細川政元は、澄之、澄元、高国という3人を養子とするのだが、この3人が政元の暗殺後に後継争いを巻き起こし、永正の錯乱という畿内を大混乱に陥れる内乱を起してしまう。
これに対し、波多野種通は、細川高国に弟の香西元盛を仕えさせていた。
永正の錯乱は、最終的に足利将軍家のお家騒動も相乗りし、畠山高国の勝利で終わる一歩手前まで謀略と戦闘によって進んで行く。
ところが、そんな畠山高国の重臣となっていた香西元盛が、細川尹賢の讒言で殺害されるてしまう。
弟を無碍に殺害された波多野種通は、丹波の細川氏勢力を一掃し、細川高国をを討伐するのだった。
ところが、英俊波多野種通の跡継ぎだった波多野晴通が、非常に暗愚だった。
細川高国没後、細川家は細川晴元(澄元の子)と、三好元長によって運営されていく。
ところが、細川晴元は、有能な部下に嫉妬する小者で、三好元長は粛正され、その子三好長慶は、主君細川晴元の元で牙を研いでいくことになる。
その激動の政変の波の中で、波多野晴通は、妹婿の三好長慶に攻め滅ぼされている。
三好政権が織田家によって崩壊させられ、丹波の統治者だった松永長頼(久秀の弟)が亡くなると、波多野晴通の子、秀治は、従姉妹の婿赤井直正などの助力により、丹波支配を復活させ、織田信長の盟友となっていた。
ところが、浅井、朝倉を中心とした第1次信長包囲網が足利義昭によって行われると、波多野秀治も包囲網に参加し、織田家を裏切ってしまった。
明智光秀は、威力外交をしようと丹波に出陣したのだが、赤井直正の籠城する黒井城を包囲したものの、援軍の波多野秀治に挟み撃ちを食らい、典型的な「後詰決戦」によって完敗。
これを聞いた織田信長は激怒し、波多野家攻略を明智光秀に命じ、多数の城主を増援に付けた。
波多野秀治は、全域が峻厳な山岳地方である丹波を、天然の要害に見立て、徹底抗戦に打って出た。
だが、山岳地の悲しい性で、簡単に食料の入手が止まり、ついには備蓄が底をつき、その間にも各国人は明智光秀によって調略を受け、居城である八上城が開城させられてしまったのだった。
明智光秀は、波多野秀治と、弟の秀尚に対し、助命を約束していたのだが、織田信長は、明智光秀の約束を無視し処刑を命じたため、二人は磔に処されてしまった。
<佐久間軍団>
佐久間信盛は、織田信秀の家臣だったのだが、後に6歳下の幼い吉法師(信長)の寄騎となっている。
素行の悪い事で有名だった若き織田信長に、愛想を尽かすことなく、一貫して付き従っていた。
従兄には佐久間盛重がおり、信長の臣の多くが信勝に鞍替えする中、反対に信勝の臣でありながら、信長に鞍替えしたような人物である。
人から信頼を得られなかった尾張時代の信長にとって、盛重、信盛の忠義は、自分にも理解者がいるんだという心の支えになっただろうし、佐久間一族は、まさに信長軍の要であった。
だが、桶狭間の戦いで、「猛将」佐久間盛重が、松平元康(徳川家康)隊に攻められ討死。
佐久間信盛は、粗肴の佐久間一族代表として、織田信長に引き立てられていくことになる。
有能ではあったが、決して突出した才能というわけではなかった佐久間信盛は、織田信勝の謀反騒動の後、「猛将」柴田勝家が加入すると、柴田勝家に筆頭家老の座をあっさり明け渡し、美濃攻めの頃には、「鬼神」森可成や、「能吏」丹羽長秀の後塵を拝していった。
そこそこの武と、消極的ながらも粘り強い戦闘指揮は、「退き佐久間」と称されることになるが、信盛自身、自分が決して有能でない事を心得ており、身を粉にして働く事を自慢としていた。
時にはそれを宴席で口に出してしまい、信長の不興を買うこともあったのだが。
そんな愚直なまでに献身的な態度は、他の武将とは段違いの信頼を織田信長から得ており、柴田勝家と共に、方面軍司令に任命されたのだった。
(信盛、盛重の従弟盛次は、信勝陣営に残っており、信盛、盛重には重用されず、柴田勝家に重用された。
盛次は、柴田勝家の姉を娶っており、その縁で子供たちは、縁者の少ない柴田勝家の一門扱いを受けた。
この時も柴田軍団に所属し、長男は鬼玄番で有名な佐久間盛政、三男は養嗣子だった柴田勝政。)
佐久間軍団は、信盛が参謀の重要さを全く理解できておらず、軍団も中途半端なワンマン経営で、智将を活用できずにいた。
哀しいかな信盛には、人を束ねるような能力すらも乏しく、司令官が精々で、総司令官は荷が勝ちすぎており、副将格の松永久秀を制御できずに謀反されてしまっている。
もし、信盛に松永久秀を活用できるような器があったなら、この後の織田家の運命は、全く異なるものになっていたであろうに。
後に大坂城となる、石山本願寺は、一面平野の広がる地にあって、非常に堅牢な山城で、水運もあって籠城に極めて有利な城であった。
織田信長が、自ら攻略を行っていたのだが、猛将塙直政を雑賀孫一に討ち取られてしまっているように、一筋縄ではいかないと感じていた。
そこで攻略を任せられた佐久間信盛は、その凡才をフルに活用し、石山本願寺を徹底的に包囲した。
包囲軍は、この時代の軍にしては珍しく、補給線もしっかりしており、何年でも包囲を続けていけそうではあった。
だが、ろくな局地戦すらしない、その超消極的な方針は、織田信長からしたら、物資の無駄使いに映った。
同時に軍団長になっている柴田勝家が、加賀、能登で一向宗相手に目覚ましい快進撃を繰り広げていたので、佐久間軍団の慎重さは、より消極的に映っただろう。
織田信長は、自身の軍団を活用し、兵糧運び込みの毛利水軍を撃破したりと、石山本願寺攻略の補佐に尽力していた。
だが、当時の寺院というのは、延暦寺もそうだったが、朝廷とズブズブで、結局、本願寺は石山御坊を退去することを条件に和睦することになった。
織田信長には、この講和が我慢ならなかった。
そしてその怒りは、攻略担当者だった、佐久間信盛に向かった。
52歳になっていた佐久間信盛は、凡才の自分を、織田信長はこれまでの忠義のみを見て、重用してくれていると承知していた。
織田信長は、そんな佐久間信盛に、これまでのミスを書きなぐって送り付けた。
織田信長は、佐久間信盛の今後の奮起を期待したのだろうが、残念ながら佐久間信盛は、辞職することになったのだった。
信盛としては、嫡男の信栄が、自分に似て何の才能も無い上に、軍事より趣味に没頭していたことに、佐久間家の未来を不安視していたというのが、大きかったのかもしれない。
解体された佐久間軍団に代わり、2つの軍団が組織されることになった。
今回の石山本願寺との戦いで、関係が悪化した毛利家には、羽柴秀吉が山陽方面軍を担当することになった。
また、畿内の治安維持と、南海道方面の外交を担当する軍団として、明智光秀が軍団長に就任することになった。
明智光秀は、既に64歳になっており、色々と衰えが顕著になってきている。
問題は、一回り下の年齢の織田信長の方が、知能的な衰えが顕著になってきていることである。
本能寺の変まで、残り2年。
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明智家 その3
http://kazwak.exblog.jp/30171001/
2020-08-07T18:26:00+09:00
2020-08-15T11:08:05+09:00
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東海
明智光秀の家臣と言われても、なかなか名前の挙がる人は少ないだろう。よく、この時代の名将リストとして、四天王(徳川四天王など)や、○本槍(賤ヶ岳七本槍など)、○将(武田二十四将など)といったリストがあるのだが、明智光秀には五宿老と呼ばれる人物がいる。
・明智秀満
基本的には良くわかっていないが、光秀の叔父明智光安の子と言われている。
名前も三宅弥平次や、明智光春とも言われている。
恐らくだが、明智家の分家ということで、三宅氏を名乗ったのだと思われる。
明智光秀が浪人の時代から付き従った譜代中の譜代と言われている。
明智軍団一の猛将で、明智左馬助の名前で知られ、妻は光秀の長女。
・明智光忠
基本的には良くわかっていないが、光秀の叔父明智光久の子と言われている。
この人物の名前が出てくるのは、かなり後になってからなので、もしかしたら、明智光秀が城主になってから、噂を聞きつけて仕官したのかもしれない。
妻は明智光秀の次女。
・斎藤利三
斎藤道三によって簒奪された美濃斎藤家の一族で、通称は斎藤内蔵助。
道三こと利政は、斎藤妙椿の養嗣子利国の系図を受け継いだのだが、元の妙椿の一族、斎藤利賢の子が、この利三。
叔母が明智光安の妻で、兄は石谷頼辰、その石谷頼辰の娘が、長宗我部元親の正妻。
経歴には謎が多いが、明智光秀とは幕府の奉公衆を共にしていたことがあるらしい。
その後、斎藤義龍(一色義龍)の家臣となり、稲葉良通(一鉄)の与力になっていたが喧嘩し出奔。
明智光秀が織田家に仕官すると、明智光秀の元に仕官。
後に、稲葉良通が織田信長に斎藤利三の返還を訴え、明智光秀が織田信長と喧嘩することになる。
極めて有能な人物で、石田三成における島勝猛のように、明智家の家宰のような人物だった。
娘の福は、後に徳川家康の目に止まり、家光の乳母となる春日局。
・藤田行政
基本的にはこの人物の事も良くわかってはいない。
通称は藤田伝吾で、明智光秀の父明智光綱時代に仕えたらしく、そこから明智家の家人のような待遇だったらしい。
恐らくは、明智城落城後、浪人時代から付き従っていた数少ない人物の一人であると思われる。
槍の名手であったらしく、明智本陣を守護する親衛隊長だったと思われる。
・溝尾茂朝
出自などは不明で、通称は溝尾庄兵衛。
戦よりも統治で名が挙る事から、高級能吏だったか、内務統括だったかもしれない。
信長公記を書いた太田牛一すら、名前をど忘れしたマイナーな人物。
<第1次包囲網>金ヶ崎の撤退戦の後、織田家は朝倉、浅井の連合軍に対し、徳川家康の助力で対抗し、姉川での激戦で撃ち破っている。
はっきり言って、この姉川の戦いでの織田軍は、朝倉軍以上にへっぽこで、浅井軍の先鋒磯野員昌に押されまくっていた。
一方の徳川軍は朝倉軍を押しまくっており、最終的に織田、徳川連合軍が勝利できたという感じである。
問題は、この戦いの後の話である。
なんとなく、この姉川の戦いのすぐ後、朝倉、浅井両家は滅亡したというイメージがある。
確かに、潰走した朝倉軍と、それを逃がす為に踏みとどまった浅井軍の受けたダメージは深刻で、浅井家の宿老だった浅井政澄が戦死するなど、その後の軍事行動にかなりの支障をきたしているし、朝倉軍も、朝倉宗滴後に軍の重鎮だった真柄直隆、直澄兄弟を戦死させており、軍事的な損害は著しかった。
だが、この姉川の敗戦以降も、浅井、朝倉の両家は、まだ十分健在だった。
金ヶ崎の敗戦は、足利義昭から連合の書状を受け取った勢力に希望を植え付けた。
摂津の浄土真宗(一向宗)の石山本願寺、琵琶湖西岸の比叡山延暦寺、三好三人衆、紀伊の雑賀党、根来党、伊賀、甲賀の忍者衆、更に六角家の残党と、敵対勢力が織田領を囲むように盛り返しており、極めて厳しい情勢になり始めていた。
この時点で織田家がしっかり支配できているのは、尾張、美濃のわずか2国。
山城は三好家に攻められ、南近江は、六角残党と、比叡山が敵対、摂津、河内、和泉も未だに三好家と抗争中、伊勢は接収しているもの、浄土宗の寺院による一揆と、北畠家の反抗が残っていた。
更に、摂津の池田勝正が、三好三人衆の調略で追放され、京のすぐ西は支配地域から外れはじめていた。
このままでは、居城の岐阜城と、京への通路も塞がれかねないと、中山道の要衝に、森可成、佐久間信盛、柴田勝家、中川重政の4名を配置。
その後、浅井の本城小谷城の近く、横島城の守備として丹羽長秀が城主に任命されている。
その内、京に最も近い宇佐山城が最重要拠点で、そこを守っていた森可成(森蘭丸の父)は、織田家でも有数の猛将だった。
そこに浅井、朝倉連合軍は延暦寺の僧兵と共に攻め込んだ。
織田信長は、弟の織田信治を援軍に差し向け、猛将森可成も、城外に伏兵として待ち伏せ奮戦。
なんとか落城は防げたものの、守将の森可成、援軍の織田信治は討死。
明智光秀は、城兵の一部を指揮しており、宇佐山城を残党と共に死守していた。
この頃、織田信長は摂津を奪い返そうと出陣中だったのだが、琵琶湖南部の長光寺城を守備していた柴田勝家が、摂津まで出向き状況を報告、京の孤立化を防ぐために撤退した。
織田軍の転進を知った浅井、朝倉連合は、比叡山に撤退。
織田軍は、粘り強い戦いに定評のある永原城主の佐久間信盛と、宇佐山城を死守していた明智光秀に比叡山への籠城戦を命じた。
ところが、これに対し、中山道の守りが手薄になったと、六角義賢が浄土真宗門徒と共に挙兵、さらに北伊勢では長島の浄土真宗の願証寺が挙兵、尾張の小木江城を守備していた織田信興(信長が一番信頼していた弟)が戦死している。
最終的に、正親町天皇の調停により、比叡山、浅井、朝倉との講和が行われ、なんとか危機を脱したのだった。
この一件で近江の支配体制の強化が急務となっており、宇佐山城は戦死した森可成に代わり、正式に明智光秀が城主となっている。
その後、琵琶湖東岸で孤立していた、佐和山城の城主磯野員昌が降伏。
代わって丹羽長秀に守備させ、その北の横山城は木下秀吉に守備させ、浅井家随一の猛将磯野員昌は、琵琶湖西岸の拠点新庄城を守備することになった。
<比叡山>
仏教は、538年に日本に入ってきたのだが、元始の仏教は、民衆の救済ではなく、国家の安泰を元にしており、あまりなじみのあるものでは無かった。
奈良時代には、遣唐使などの中国との交流によって、東大寺などの南都六宗と呼ばれる元始の宗派が誕生。
平安時代になると、仏教界に二人のスターが現れる。
一人は後に天台宗を興す最澄、もう一人は後に真言宗を興す空海である。
天才の空海と、秀才の最澄はかなり異なった理解によって、仏教界に革命を引き起こす。
仏教そのものは、釈迦による解脱(悟りを開くこと)の教えがメインではあるのだが、師弟たちの解釈はまちまちであり、その幾通りもの解釈によって、最初から多くの宗派ができていた。
その中で、広く大衆を救う解釈が中国経由で日本に渡っているのだが、その方法が二人とも違っている。
最澄は、厳しい修行の葉てに何か見えるものがあるという教えで、空海は、仏の世界をよりディープに学ぶことで、何かわかる事があるという教えを広めていた。
どちらも、仏の教えは個人の救済にあり、国家経営とは関係無いという考えだった為、民衆に仏教が広がっていった。
最終的に、最澄は京の東の葉て、比叡山に延暦寺を建て、空海は、紀伊の高野山に金剛峯寺を建てた。
平安時代の中期から鎌倉時代になると、天台宗の修行によって、何かを掴む者が現れる。
法然は、阿弥陀如来は如来から仏になるために民衆を救おうとしているから、阿弥陀様を頼れば救われるという楽園信仰の浄土宗が大流行。
それに親鸞が、死後浄土に行くために、阿弥陀様を崇めようと、楽園信仰の割合を強めた浄土真宗を興す。
それに対し、日蓮が、法然や親鸞の教義は邪道、ちゃんとお釈迦様のことを書いた妙法蓮華経(法華経)を唱えないとダメという日蓮宗が興る。
その後、道元が、座って仏様を思い浮かべるだけで救われるんだという、禅の魁となる曹洞宗を興す。
初期こそは、ちゃんと宗教を学んでいくのだが、徐々に世俗の考えに汚され、欲にまみれていく。
それは近代仏教の総本山ともいえる比叡山も同様で、比叡山を要塞化し、僧を武装化し、琵琶湖西岸の街道を支配し商売人からお布施を徴収し、その資金で琵琶湖の水運を利用し金稼ぎをしていた。
琵琶湖の南端の坂本は、比叡山の城下町になっており、そこには僧侶用の夜の街までできていた。
どうも、比叡山は、織田家が上洛した際に、領土を掠めとられてしまったらしく、その恨みで、織田家に反攻したらしい。
当時の僧正は、正親町天皇の実弟で、調停に正親町天皇が出てきたのも、その為である。
そんな比叡山に対し、織田家の首脳の多くは、焼討を提案した。
明智光秀もその一人である。
一方で佐久間信盛のような慎重派は、焼討よりも懐柔をと唱えていた。
結局、軍議として、後の憂いを除く為、焼討がおこなれることになった。
よく、この件で、比叡山が焼討になったと言われているが、実際に焼討になったのは門前町の坂本で、比叡山は軍事拠点の一部が焼かれただけである。
その坂本の城下町は、近くの宇佐山城主の明智光秀によってすぐに再建され、明智光秀も、坂本城に居城を移している。
それと同時に、明智光秀は、足利義昭を見限り、幕臣の身分を辞職し、正式に織田家の直臣となっている。
(それまでは足利幕府の幕臣が正社員で、織田信長の臣はアルバイトだった)
<第2次包囲問>
尾張~美濃~南近江~京というラインをきっちり押さえた織田家に対し、朝倉家、浅井家などは、もはや手出しができなくなっていた。
足利義昭を追放し、朝倉家の一乗谷城を包囲陥落させ、浅井家の小谷城も包囲陥落させた。
これに大いに活躍したのが、羽柴秀吉(木下秀吉)だった。
この頃までは、先の柴田勝家、森可成、中川重政、佐久間信盛、丹羽長秀と、伊勢での瀧川一益、兄弟の織田信広、信興、信治あたりが重鎮であった。
そこに、明智光秀と羽柴秀吉が急浮上してきたのだった。
(ちなみに、中川重政は柴田勝家と領地争いをし、失脚している)
織田家の中では、織田信忠が元服し、いくつかの城主を支配下に置いた、軍団が組織され始めていた。
そんな頃、武田信玄が徳川家康領に侵攻してきたのだった。
織田信長は、援軍として佐久間信盛、瀧川一益、平手汎秀(諌死した平手政秀の孫)、林秀貞(幼年時代の信長の筆頭家老)、水野信元(徳川家康の母お大の兄)を派遣した。
兵力も徳川軍の2倍ほどの兵数となっており、佐久間、瀧川の二人は織田家でも名将であり、圧倒的な援軍と思えた。
ところが、兵数の多さに慢心した徳川家康は野戦を主張し、兵数を利用した守戦を敷くべきという織田軍で意見の食い違いがあり、織田軍と徳川軍の間に亀裂が入っていた。
結局、三方が原で連合軍は見事に中央を突破され、織田軍はろくに戦いもせずに後退。
戦場に留まった徳川軍の諸将と、織田軍の平手汎秀が討死。
この頃、織田信長は、足利義昭の反乱の鎮圧、朝倉攻め、浅井攻め、三好三人衆の撃退、伊勢長島の一揆勢の根切りと、各地を転戦している状態だった。
さらには本拠地の岐阜城の近く、遠山氏の岩村城を攻められており、疲労の蓄積が尋常じゃない時期だった。
石山本願寺を攻めるも、後の大坂城は、この時点ですでに難攻不落で、佐久間信盛の老いによる能力低下もあり、毛利家による海路の制圧や、雑賀党の鉄砲隊の奮戦、僧兵の指揮官下間頼廉の名指揮と、攻城戦は完敗だった。
織田信長は、死んだ武田信玄の後継者、武田勝頼が、父ほどバランスの取れた将でないと判断すると、東三河の平原、設楽が原で武田軍を迎え撃った。
三方が原の時とは、軍勢の内容は全く異なり、織田軍の名将を集めに集めた。
織田信長、信忠親子が総大将となり、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、瀧川一益、明智光秀、佐久間信盛、池田恒興、森長可(森蘭丸の兄)と城主級の家臣をずらりと揃え、前田利家、野々村正成、蒲生氏郷、稲葉一鉄などの指揮官クラスも大量に引き連れていった。
大量に馬防柵を張り巡らせ、突撃能力を削いだ所に長槍の突撃をかまされ、完全に足止めを受け、鉄砲で撃ち抜かれるという完璧な防衛戦に、武田軍は成すすべなく、高級指揮官、中級指揮官を次々に戦死させていった。
この戦いの後、織田家は、正式に織田信忠軍団を稼働させ、武田家の討伐に従事させる。
その後、柴田勝家を越前を拠点に軍団を組織させ、北陸方面を担当させ、佐久間信盛にも、三河、尾張、と畿内南部を拠点に軍団を組織させ、畿内平定を担当させている。
明智光秀は、この頃、坂本城主として、織田信長の直轄軍に属しており、主に朝廷工作や京都の治安維持を担当しながらも、関西方面での戦には城主として参戦するという目の回る忙しい日々を過ごしていた。
更に、坂本城下は、元々比叡山が金蔵にしていたような、経済的に優良な地で、そこを再開発することで、かなりの矢銭収入を得ていた。
その豊富な矢銭収入を元に、足利幕府が消滅した事で、行き場を失った幕臣を召し抱えたり、旧浅井家の将を召し抱え、元々の旧斎藤家の将と合流させ、着実に家臣団を充実させていった。
この頃、織田信長は、家臣に姓を与えるのを褒賞としており、明智光秀には惟任の姓が与えられた。
こうして、明智光秀は、実力では織田家のNo2、待遇でも織田信忠、柴田、佐久間、丹羽に次ぐくらいの地位にのし上がっていったのだった。
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明智家 その2
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2020-07-16T20:54:00+09:00
2020-08-07T11:40:33+09:00
2020-07-16T20:54:13+09:00
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東海
美濃東部で勢力を誇っていた遠山氏。遠山氏というと、思い出すのは「遊び人の金さん」こと、遠山左衛門少尉景元。江戸後期の実在の名判官で、「耀怪」と言われた鳥居耀蔵に対抗し、徹底して民衆の側に立った人物である。この遠山氏は、美濃の遠山氏の本家では無く、傍流の明智遠山氏で、武田家の侵略で拠点を失い、浪人して相模小田原に流れ、北條家臣になったと言われていた。最近、伊勢宗瑞(北條早雲)の研究の結果、どうも、明智遠山家の遠山直景という人物が幕府の奉公衆をしており、伊勢宗瑞と共に、駿河に向かったことがわかったらしい。つまり、伊勢宗瑞の初期の家臣の一人であったということである。
本家の岩村遠山家は、斎藤氏が織田家に滅ぼされた後、織田信長の叔母(信長より年下)のおつやの方という女性が嫁入りしている。おつやの方の夫、遠山景任が家督を継いだ頃、遠山家は内紛が激化しており、斎藤家からは独立した関係になっていた。織田家が美濃を制圧すると、遠山家は織田家に属し、対武田の最前線に位置することになった。当初は、織田信長は武田家とは友好な関係を結んでいたし、遠山景任自身も、かなり勇猛な将軍に育っており、武田家が侵攻してくることは無かった。武田家が、足利義昭の要請で信長包囲網に参加し、三方が原の戦いの頃には、関係も悪化し、秋山虎繁を大将とする侵攻軍を差し向えられていた。遠山家の最大の危機を前にして、遠山景任は病死してしまう。遠山景任とおつやの方には子が無く、遠山家は、織田信長の子信勝が継いでいたのだが、未だに幼少だった。この時、降伏交渉に来た秋山虎繁に、おつやの方は一目惚れしてしまう。おつやの方は、あっさり降伏すると、秋山虎繁の元に再嫁し、信長の子信勝を武田信玄の元に送ってしまう。ところが、武田信玄はインフルエンザであっさり病死。その後ミリタリーバランスは織田家に傾き、岩村城は織田軍により陥落。おつやの方、秋山虎繁共に殺害されたのだった。
<越前へ>今まで、明智光秀の前半生は、ほとんど何もわかっていなかった。
最近になってわかったのは、斎藤道三と、その子一色義龍が争った際、明智家は道三側につき、没落したこと。
明智光秀は、一族の残党を率いて、近江と京の国境あたりに落ち延びたこと。
どこかで薬の知識を得たようで、医師をしながら、客将(アルバイト武将)をしていたこと。
その中で、室町幕府の重鎮、細川藤孝と交友を結んだこと。
その間に男児(光慶)をもうけ、家族が増えたこと。
そんなこんなで数年が過ぎたころ、1つの事件が起きる。
京の室町御所が三好軍に襲撃されたのだった。
時の将軍、足利義輝は、剣豪と名高い塚原卜伝から、免許皆伝を受けた剣豪で、襲撃の報を聞くと、当代の名刀を抜き身にして畳に次々と刺し、三好軍を迎え撃った。
血糊で切れ味が劣ると、別の刀に持ち替え、コーエ-の戦国無双もびっくりの、まるで三国志の呂布のような無双っぷりで、斬って斬って斬りまくった。
数を頼った攻めが通用しないとみると、さすがに雑兵は腰が引けた。
大将の松永久通(松永久秀の子)は、苛立ち、畳の1枚を剥がして義輝に投げつけ、刀が振れないようにして、雑兵にめった刺しにさせた。
主君の死を知った細川藤孝は、兄の三渕晴員や、明智光秀、和田惟政など、知人数人を伴い、大和の興福寺に向かい、足利義輝の弟、覚慶を連れ出し、東海道に出て、伊賀を抜け、南近江の和田惟政の屋敷で落ち着いた。
そこで還俗し、足利義秋を名乗るのだが、後にこの「秋」の字が、いかにも室町幕府の没落をイメージするとして、義昭に字を変える。
その後、琵琶湖の西を通り、若狭の武田義統を頼る。
ところが、若狭武田家は、この頃、家臣の対立が激化しており、東の越前の朝倉氏の介入を受けていた。
そこで、将軍一行は越前の朝倉氏を頼ることになる。
越前の朝倉氏は、当主朝倉義景の曽祖叔父(父の父(祖父)の父(曽祖父)の弟)の朝倉教景(宗滴)が、一家の大黒柱として、がっちりと朝倉家を支えていたのだが、9年前に79歳で大往生。
そこから、残された一族で、なんとか支えていたのだが、何人集めても朝倉宗滴1人分にはならず、朝倉家は、すっかりまったりムードになっていた。
この間、足利義昭は、後々まで活動の基本となる、お手紙外交で、東海や甲信の大名に、助力を申請していた。
その中には、織田家も含まれていたが、当時の織田家は、斎藤家との戦の真っ最中で、無視された。
だが、このままでは、上洛など夢のまた夢と、細川藤孝が焦っていた所に、明智光秀は、従姉妹(叔母小見の方と、斎藤道三の娘、帰蝶)の嫁ぎ先である織田家を推薦したのだった。
<織田信長>
タイミングも非常に良かった。
一色義龍は、父を敗死させると、わずか数年で病死。
一色義龍の子、龍興は、非常に傲慢な性格で、家臣達の忠誠心は徐々に離れてしまっていた。
そんな時に、馬鹿にして小便をかけた竹中重治に、稲葉山城を陥落される事件がおきる。
織田信長は、一色義龍に対しては、全く歯が立たなかったのだが、この事件で、龍興が無能だとわかると、一気に侵攻を開始。
西美濃三人衆を調略したり、東美濃の遠山氏に叔母を嫁がせたり、墨俣に拠点をつくるなど、美濃を一気に攻略。
この美濃の攻略と同時に、北伊勢にも、勢力を急拡大していたのだが、隣国とは常に諍いがあり、侵攻も問題無かったのだが、そこから先には、それなりの侵攻の理由がいる。
そんな頃に、明智光秀が、室町幕府の将軍の使いとしてやってきたのだった。
この当時の明智光秀は、幕臣でありながら、細川藤孝の家臣という、立場だった。
織田信長は、将軍の使者の光秀に対し、二つ返事で快諾。
更に、使者である明智光秀を高待遇で引き抜き、細川藤孝も織田家に引き抜いたのだった。
<上洛戦>
織田信長は、足利義昭を擁立すると、徳川家康の援軍と共に上洛戦を開始。
上洛までに障害となるのは、南近江の六角氏(佐々木氏)と京の三好軍。
六角氏は、源平合戦の佐々木高綱や、南北朝の佐々木道誉の佐々木家の分家で、北近江を勢力圏としていた本家筋の京極家と交代で近江守護を担当していた、守護家である。
京のすぐ隣が封領ということで、六角氏は、将軍家の混乱に事あるごとに巻き込まれながらも、応仁の乱を経て、なお存在感を発揮した家だった。
この時の当主は六角義賢(承禎)という人物で、楽市楽座を実施するような、なかなかの切れ者な人物だった。
ところが、嫡男の六角義治は、斎藤家の斎藤龍興のような、生まれながらの専制君主気質な人物で、覇気の薄い父を軟弱と蔑み、父の側近だった、後藤賢豊を謀殺し、実力を持って代替わりしようするという事件が発生。
後藤賢豊は、六角家を支える名宰相で、同僚の人望も厚かった為、家臣達は六角親子に猛反発。
日野城主の蒲生賢秀が仲裁に入り、事なきを得たように見えたが、君臣の仲はギクシャクしたままだった。
そこに上洛軍が攻めてきたのである。
織田信長は、六角氏に対するに、電撃作戦を取った。
六角氏には、いくつもの軍事拠点があったのだが、その拠点を守護する家臣団との間に亀裂が入ってるという情報をえており、一気に居城の観音寺城と、その支城の箕作城のみを攻略する運びとなった。
まず箕輪城の攻城に取り掛かる上洛軍だが、その前に婚姻同盟を結んでいた、北近江の浅井軍が援軍に駆けつけた。
攻城戦は夕方に始まり、あっという間に陥落。
箕作城が陥落した翌日に、観音寺城を攻めるのだが、既に六角親子は城を捨てて甲賀に逃げ去っており、残りの拠点は、蒲生氏の日野城を残し、全て降伏。
討伐軍は、そのまま京に行軍。
あまりの行軍の速さに驚いた三好家の各将は、次々に降伏。
摂津の池田勝正が最後まで抵抗したため、大激戦の末討伐。
こうして、足利義昭は京で征夷大将軍に就任するのだった。
<金ヶ崎>
上洛し、将軍職に就けてもらった織田信長に、足利義昭は、当初こそ感謝したものの、それまで付き従っていた幕臣の多くは、織田家に仕官替えしてしまっており、将軍の権威など、微塵も感じられない。
そこで足利義昭は、周辺の大名家に、密かに足利家を盛り立てるように手紙を出していた。
一方の織田信長は、純粋に領土の拡大をしようと、越前の朝倉氏を攻めた。
金ヶ崎城は比較的簡単に落城したのだが、浅井家が同盟を破棄してきたのだった。
越前からは、琵琶湖の西岸を通るしか道が無くなり、浅井、朝倉の猛追が予想される。
そこで織田信長は、先日織田家に最後まで抵抗した池田勝正を総大将に、新参の部隊長の明智光秀、木下秀吉を副将につけ、大規模な殿軍を組織し、その間に、他の部隊を撤退させることにした。
残された殿軍は地獄の行軍となった。
中級指揮官に負傷者が続出した。
それでも、池田勝正の采配は見事であり、明智軍の鉄砲隊は、確実に朝倉軍の追撃を遮り、木下軍の中級指揮官たちの奮戦は、朝倉軍の中級指揮官を的確に討ち取っっていった。
この撤退戦で、明智光秀は、池田勝正、木下秀吉と共に、織田四天王と言われた、柴田勝家、丹羽長秀、瀧川一益、佐久間信盛に匹敵する司令官として扱われることになるのだった。
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明智家 その1
http://kazwak.exblog.jp/30084214/
2020-06-01T14:39:00+09:00
2020-06-12T18:00:00+09:00
2020-06-01T14:39:22+09:00
kazwak1
東海
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」は、明智光秀の生涯を描こうとした作品である。残念ながら、公開前に、帰蝶役の沢尻エリカ被告が、麻薬所持で逮捕され、代役を立てたものの、中国武漢から感染拡大した武漢肺炎ウイルスの影響で、撮影続行が不可になり、長期の中断を余儀なくされている。
少し前まで、この明智光秀という人物について、詳しいことがほとんどわかっていなかった。
そもそも、明智家が土岐一族ということも自称にすぎないと言われて、未だに明智光秀の父が誰かについてすら、しっかりとした記録が無いらしい。
本能寺の変の後、天下人になった羽柴秀吉は、織田信長を本流とし、織田信長と自分に刃向った者の資料を消したらしい。
さらに徳川家康も、織田信長、羽柴秀吉を本流にし、同様のことを行っているらしい。
戦国期の土岐家の資料が異常に少ないのもそのせいらしく、特に明智光秀の資料は、極めて少ないらしい。
だが、家臣たちや、関係者の中には、こっそりと家宝として書状を残していた家があり、そういった家の倉から、非常に貴重な1次資料が発掘されてきている。
その結果、今までは、全く不明とされていた、織田家に仕えるまでの明智光秀のことが、徐々に判明しはじめているらしい。
<美濃源氏>後に多くの英雄を排出する源氏は、元々は第56代清和天皇の皇子と皇孫が、源の姓を賜り、現在の大阪府と兵庫県の県境付近、摂津国に土着した所から、その繁栄は始まる。
清和天皇の皇子、貞純親王の孫に源満仲という人物がおり、武官として、朝廷の政変で汚れ仕事を請け負ったり、藤原摂関家に仕える事で、武官として出世を果たしていく。
出世すれば、それなりに相続するものができるわけで、3男の源頼信は、新家として、南の河内に居を移し、以降一族は、河内源氏と呼ばれていく。
源頼信の河内源氏は、東北の安倍氏や清原氏の反乱討伐に参加し、関東や東北に居を移していった。
源頼信の孫は、八幡太郎とうたわれた源義家で、その義家の孫は、保元の乱で活躍した源為義、その為義の孫が、鎌倉幕府の将軍、源頼朝である。
摂津源氏の源満仲の嫡男は、源頼光という武に長けた人物で、藤原摂関家に仕えた武官だった。
源頼光とだけ言われても、あまりピンとくる人は少ないかもしれないが、この源頼光は、大江山の酒呑童子という鬼を退治した人物として物語に登場している。
また、源頼光には、渡辺綱、碓井貞光、卜部季武、坂田金時という四天王といわれる部下がいた。
この坂田金時が、足柄山の金太郎である。
源頼光の嫡男源頼国の5男は、源国房といい、新家として、美濃に居を移した。
美濃は、現在の岐阜県の北東の山岳部である飛騨地方を除いた全域。
元々は、長良川と木曽川という2本の大河に土地が3分割されていたことで、「三野」と言われていた地域を、美麗な字を充て、「美濃」と書くようにしたらしい。
美濃は、平地は南部と西部にしかなく、7割くらいが峻厳な山間部である。
東部は信濃の木曾谷、北部は山間の飛騨地方、西部も近江との間にちょっとした連峰があり、中央を中山道が貫いていて、そこが有名な関ヶ原である。
後に、南の尾張と共に、濃尾平野と言われる一帯は、大河の氾濫をある程度制御することで、肥沃な穀倉地帯に変えていくのだが、初期の美濃国は、川に削られた鋭利な崖ばかりの山間部と、頻繁に川が氾濫する平地、氾濫による疫病の蔓延で、かなり生存には厳しい地であったらしい。
源国房の頃は、まだ地方は奪い合いによる勢力拡張が盛んだった頃で、源国房も、河内源氏の八幡太郎源義家や、源頼仲の弟、源満政の一族の侵攻を受けている。
源国房の子、源光国以降も、一族はなんとか美濃を統治していきながら、京に近いという立地もあって、中央の政変に参加していく。
源光国の子光信は、館のあった地名の「土岐」で呼ばれはじめ、以降、土岐家が美濃の有力武家となっていった。
土岐光信の子光長は、平清盛からも美濃の統治を任され、木曾の源義仲が上洛してくると、義仲に従い、京に攻め込んでいった。
義仲が後白河院と対立すると、後白河院側に組するのだが、その節操無さが祟ったのか、後に捕えられ斬首されている。
土岐光長の3男に、土岐光衡という人物がおり、この人物が、叔父に養子に出されていて、源頼朝に接近、美濃の御家人になっている。
鎌倉幕府で3代源実朝が暗殺されると、空白になった鎌倉将軍家を見た後鳥羽上皇は、本来、幕府の地方政権にすぎない鎌倉政権を直轄支配にしようと、多くの御家人に働きかけ、承久の変を引き起こす。
この際、土岐光衡の子、土岐光行も、朝廷側に参軍した。
承久の変は、北條義時の指揮により、鎌倉幕府の勝利で終わるのだが、多くの御家人が所領を失う中、土岐光行は、幕府側の御家人の助命嘆願により美濃を保持させてもらっている。
土岐光行は敗戦後、すぐに隠居しており、子の土岐光定は、執権北條家との関係を築いていた。
<康行の乱>
ここまでの流れでもわかるように、土岐氏は、かなり忠義からは程遠い性格の家で、基本的に反体制に組みすることを好む家だったりした。
土岐光定の子たちは、後醍醐天皇の討幕運動に助力し、その流れで、足利尊氏の指揮下に入ることになり、美濃守護となり、子の土岐頼遠は、婆紗羅大名として、南朝相手に、軍功を積み重ねた。
ところが、建武の親政の失敗、鎌倉府の陥落、足利尊氏の離反、京御所陥落、後醍醐天皇の吉野遷都、と、全く情勢は安定しなかった。
婆紗羅(チンピラ)ブームの中で、土岐頼遠は、完全に羽目を外してしまい、天皇の御車を酔った勢いで蹴飛ばし、足利直義からこっぴどく怒られるという失態を犯している。
さすがに、土岐頼遠とその子は守護から外され、土岐家は、従兄弟の土岐頼康が継ぐのだが、残念ながら世継ぎがおらず、弟、揖斐頼遠の子が、土岐康行として、継ぐことになった。
時の将軍は足利義満。
足利義満は、天才的な政治感覚によって、勢いの出た大名家にわざと不和を植え付け、幕府軍として討伐するということで、大名同士を疑心暗鬼にさせ強力させないという政策で、幕府統治を安定化させていた。
そのターゲットに、土岐家が選ばれてしまったのだった。
利用されたのは、弟の島田満貞。
満貞は野心家で、兄を讒言して地位を奪おうとした。
ところが、足利義満は、その兄弟喧嘩を利用して、従兄弟の土岐頼忠に討伐させ、土岐康行兄弟を失脚させた。
以降、美濃は土岐頼忠の一族が守護に就任していくのだが、京の幕府は、足利義満亡き後、内ゲバが激化していき、もはや統治とは名ばかりの状態に落ちぶれていくことになる。
一方で、美濃は、富島氏、斎藤家、長井家を守護代として、統治を任せていく。
その結果、美濃は、守護代の斎藤利明(宗円)と妙椿の親子によって、簒奪されることになるのだった。
<応仁の乱>
土岐頼忠の孫、持益には持兼という子がいたのだが、残念ながら早世。
土岐持益は、持兼死後、世継ぎを持兼の遺児にしようとしたのだが、守護代の斎藤宗円の嫡男利永は、隣国尾張の一色義遠の子を土岐成頼として、後継にゴリ押ししてきた。
完全に美濃が斎藤宗円一家に牛耳られたこのタイミングで、西日本全土を巻き込む大争乱、応仁の乱が発生する。
応仁の乱では、どちらかといえば細川勝元を大将とする東軍が体制派で、山名持豊の西軍が反体制派だった。
反体制派の西軍は、比較的地元の実力者が多く、東軍は守護が多かった。
そのせいか、斎藤妙椿は、美濃1国を西軍に付けた。
何かしら、得るものがあると考えての参戦だったのだろうが、残念ながら、応仁の乱は、参戦した家に多大な負担をかけるだけかけた、単なる消耗戦だった。
美濃は、この乱で消耗した挙句、守護は完全に守護代の斎藤家に私物化されることになる。
この財政破綻著しい美濃に一人の男が現れる。
その人物は、元は京の僧であり、僧を辞め還俗し松波庄九郎を名乗り、美濃で油商家の丁稚となり、その商家、山崎家の婿養子となった。
非常に手先が器用だった庄九郎は、銭の穴に油を通して注ぐという奇妙は技を持っており、美濃でも大人気の油商人になった。
そんな庄九郎を、守護家の1つ長井家が目を付けた。
長井家の家臣の家で断絶していた西村家を継いだ庄九郎は、西村正利を名乗った。
西村正利は、持前の器用さを槍の扱いに生かし、家中でも評判の槍使いになっていった。
ちょうどその時期に、守護の座を土岐政頼と弟の土岐頼芸が争う事件が起きる。
西村正利は弟の土岐頼芸に付き、土岐政頼を追放、その際、土岐頼芸を傀儡にしようとしていた長井長弘も追放。
西村正利は、長井家を継ぎ、長井規秀を名乗るのだった。
長井規秀には子がおり、その子は守護代の斎藤利良が亡くなると、斎藤家を継ぎ斎藤利政(後に出家し道三)を名乗った。
斎藤利政は、父譲りの器用さと、野心で、土岐頼芸の子や兄弟を次々に暗殺していき、ついには、守護の土岐頼芸も、越前へ追放。
美濃一国を支配したのだった。
<明智家>
土岐康行の乱の頃、康行の叔父頼兼は、美濃と尾張の国境、明智に城を築いた。
美濃は、西部、中部の平原部は、土岐家と重臣でがっちりと統治されているのだが、東部は、遠山氏という家がいくつかの分家を作って統治していた。
遠山家は、山間部の為に戦力はそれほどでも無いにしろ、隣の木曾谷からもたらされる、檜などの木材や、木皮、柴といった、当時の生活には欠かせなかったものの流通からかなりの資金を得ており、美濃の全収入からすると、かなりの割合となっていた。
そこで、遠山家を牽制する為に、一族の頼兼が遠山家の南の明智(現在の恵那市)に拠点を築いたのだろう。
この後、明智家の記録は良くわかっていない。
次に判明しているのは、美濃を脱出し、関ヶ原の西の村に隠れ住んだことである。
つまり明智家が美濃から追放されるような事件があったことになる。
恐らくは、土岐家に何事かがあり、明智家は敗者側に付き、勝者側についた遠山家に攻められたのだろう。
考えられるのは、斎藤宗円親子による美濃簒奪の際、土岐家を守ろうとした明智家が、排除されてしまったということだろう。
どこかの段階で、明智一族は、また明智城に戻っている。
恐らくは、斎藤道三か、その父の長井規秀が、明智城を取り戻し、明智光秀の祖父光継を明智城に戻したのだろう。
だが、光継の嫡男光綱は、若くして亡くなってしまい、子の光秀がまだ幼かった為、光綱の弟、光安が明智城を守る事になった。
光継は、自分の娘を、斎藤利政(道三)の正妻にするほど、美濃の中のいくつかの派閥の中で、斎藤利政の派閥に属した。
だが、この時点では、斎藤宗円一家に簒奪されたとはいえ、美濃の最も巨大な派閥は、守護の土岐頼芸だった。
斎藤利政は、この派閥を奪ってしまおうと、土岐頼芸の子を暗殺しまくり、挙句の果てには、土岐頼芸も美濃から追い出した。
油売り商人から成り上がった父長井規秀は、野心を表に出さずに出世することが上手だったのだが、残念ながら斎藤利政は、野心を隠すのが下手だった。
そのせいで、これらの下剋上の行動では、美濃の国人や、土岐家家臣の支持を得る事に失敗した。
土岐頼芸は、美濃を去る際、1つの置き土産をしていた。
斎藤利政は、まだ土岐頼芸との仲が良好だった頃、1つ賭けをしている。
斎藤利政の槍の腕前が見事だと知っている土岐頼芸は、しこたま酔った利政に対し、襖に書かれた虎の目を槍で貫いてみせろと命じた。
上手く貫けたら、何でも褒美をやろうと。
そこで、利政は、深芳野という頼芸の最愛の妾を所望。
酔って千鳥足だったにも関わらず、利政は見事虎の目を槍で貫き、深芳野を貰い受けることになった。
問題は、これから数か月後、深芳野が男児(高政)を出産したことである。
長男の高政は、自分は道三の子ではなく、土岐頼芸の子だと主張し、土岐家の旧臣、特に西美濃三人衆と言われる、稲葉、安藤、氏家の3家を味方につけ、無視できない勢力となっていた。
斎藤利政は、自分が父長井規秀に従順し、父を利用して下剋上した為、ことある毎に自分に反発する高政を知恵無しの愚か者と疎んじており、次男の龍重を嫡男として扱っていた。
だが、高政の側近の西美濃三人衆などは、侵攻してきた織田家に娘を輿入れする斎藤利政を、腰抜けと非難し対立。
美濃の統率を乱さない為、斎藤利政は、当主を高政とし、自分は出家し、道三入道秀龍を名乗り、院政を敷いていった。
(子たちは、この時点で龍の字を名前に入れるよう改名したのだろう)
ある日、斎藤義龍(高政)は、父に従っていた弟の斎藤龍重と、龍定を暗殺。
自身は斎藤姓を捨て、一色姓を名乗り、一色義龍を名乗った。
斎藤道三と、一色義龍で美濃は真っ二つに割れてしまったのだった。
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斎藤義龍は、母、深芳野が丹後の一色家の出なので、母方の性を名乗ったと言われている。
義龍を当主に担ぎ上げたのは、西美濃三人衆とよばれた、稲葉、安藤、氏家の3家で、中でも積極的だったのが稲葉良通(一鉄)。
実は、稲葉良通と深芳野は、姉弟である。
2人の母は丹後一色氏当主だった一色義遠の娘。
一色義遠といえば、土岐成頼の父なので、土岐頼芸の父政房と深芳野は従兄の関係となる。
土岐頼芸も長身で、斎藤利政は小男だったらしく、同じく長身だった斎藤義龍は、利政の子では無く、土岐頼芸の子だと宣伝していた。
だが、美濃一の美女と言われた深芳野は、かなりの長身だったらしく、恐らくは深芳野譲りだったのだろう。
斎藤利政は、この深芳野を正妻として扱わず、明智家の小見の方を正妻として扱った。
恐らくは、その辺りが、稲葉一鉄と斎藤利政の仲に亀裂が入ってしまった原因だろう。
(ちなみに、稲葉良通の姪は、斎藤利三(利藤(妙椿)の曾孫)に嫁いでおり、斎藤利三の娘が、3代将軍徳川家光の乳母(母?)の春日局)
深芳野は、長身のわりに安産だったらしく、利政との間に、義龍、龍重、龍定、利堯(玄番)の4人の男児をもうけている。
小見の方が輿入れした際、まだ小見の方は幼かったようで、小見の方の子、長龍、帰蝶(織田信長室)と、前4人とは少し歳が離れていたと思われる。
この事件の時、義龍は28歳で、帰蝶は20歳だったそうなので、龍重、龍定は20代後半、利堯と長龍は20代前半といったところだろうか。
成人している長龍が殺害されていないことから、他の家で見るような、父の利政が、正妻の子長龍を嫡男としたがっていて、長男の義龍を排除しようとしていたというわけではないらしい。
龍重、龍定が殺害された理由というのは、父利政と一緒になって、義龍を蔑んでいたかららしい。
龍重と龍定のみが殺害され、利堯が生かされているということは、よほど、この二人の態度は悪かったのだろう。
利堯も長龍も、織田信長の侵攻の際、降伏し、以降は織田家の将として活躍している。
利堯は猛将斎藤玄番として有名で、長龍は斎藤利政の世継ぎとして扱われ、二人とも数々の武功を上げている。
織田信長の正妻の血縁という関係から、織田信忠軍団の重臣として、かなりの出世をしている。
だが、残念ながら長龍は本能寺の変の際、信忠と運命を共にしている。
子の義興は、織田秀信(三法師)、池田輝政と仕え、岡山藩士になっている。
一方の利堯は、清須会議で織田信孝に配属となるが、信孝の死後は浪人として世を去っている。
~~~~~~~~~~~~~
祖父、父を明智城主に復帰させてくれた恩から、明智光安は、道三の陣営に参加した。
斎藤道三は下剋上で美濃の支配者になった関係で、斎藤家の所領は美濃全体から見れば、それほど広くはなく、浅井家のような国人連合の統治方式だった。
斎藤道三は、守護を追い出したとはいえ、その所領は子供たちに分割していて、自分は隠居していた為、隠居領程度の所領しかもっていなかった。
一方、稲葉山城と、井ノ口(後の岐阜城と、岐阜市)を手中にし、その次に人口の多い大垣市周辺を支配していた西美濃三人衆を味方に引き入れた一色義龍の兵力は、圧倒的だった。
東の山奥の片田舎の明智家が参戦した所で、焼石に水でしかなかった。
結局、長良川で行われた決戦で、斎藤道三は敗北し討死。
それから一色義龍は、道三方の武将を虱潰しに潰していき、その過程で明智城も落城。
その際、城主の明智光安は、兄の遺児光秀に、自分の子(後の三宅秀満と思われる)を託し、落ち延びさせると、自分は城と運命を共にした。
この時点で、明智光秀は、40歳くらいになっており、家族を率いて京都に渡り、医師をしながら、北近江の朽木谷の朽木氏の客将として、三好家と戦っていたのだった。
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上杉家・長尾家 その14〆
http://kazwak.exblog.jp/30062469/
2020-05-16T21:27:00+09:00
2020-05-16T22:51:19+09:00
2020-05-16T21:27:27+09:00
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東北
長かった上杉家と長尾家の話も今回で最後である。江戸期の上杉家というと、非常に有名なのは、上杉治憲(鷹山)という人物である。
実は、この上杉鷹山、上杉景勝の男系の男子ではない。
そもそも、上杉景勝の系統は、孫の綱勝の代で途絶えてしまっている。
その際は、叔母の嫁ぎ先の吉良義央の長男を養子に迎え、綱憲と名乗らせ対応している。
上杉綱憲の子、吉憲には、4人の子がおり、一人は畠山家を継いだ為、3人が次々に継いだのだが、3人とも後継者を作れなかった。
結局、近親にはもはや男児がおらず、吉憲の妹豊姫の娘の子である上杉鷹山が引っ張ってこられた次第である。
なぜこんなことになっているかというと、夭折といわれる、未成人の死が異常に多かったから。
その原因の多くは、病死、特に乳幼児の病死が圧倒的に多かった。
一姫二太郎と、最初の子は頑丈な女の子、虚弱な男の子は2人目以降なんていう格言があったり、七五三を祝うのは、そもそも3歳、5歳、7歳を迎えられずに亡くなる子が圧倒的に多かった事を物語っていたりする。
明治天皇の子息を見ると、夭折と書かれた子がかなり多く、皇室ですらそんな状況なわけだから、一般人に至っては、推して知るべしだろう。
最近、コロナウイルスが蔓延して問題になっているが、そもそも病気の多くが、ウイルスや、寄生虫によってもたらされていることがわかったのは、本当につい最近のことだったりする。
明治以降、顕微鏡の技術が発達し、それまで死病とされた多くの病気の原因が次々に判明していった。
また、原因が判明すると同時に、ワクチンや特効薬が作成されていき、過去の死病のほとんどが、過去の病気となっていった。
さらに井戸水の使用を制限、消毒した水道水を利用するようにし、伝染病患者は完全に回復するまで隔離病棟に入れられたり、特定の国への渡航の際は、事前に予防接種を受けるなど、徹底した浄化の努力によって、現在の公衆衛生が得られたのである。
今回流行しているコロナウイルスは、実は、風邪と一括りにされている病気を引き起こしているウイルスの一種らしい。
そのコロナウイルスの変種が、今回、武漢で大流行し、世界に蔓延してしまった。
武漢で死者がバタバタ出ていると噂されてから、日本で報道されるまで、かなりの時間を要したのだが、日本の多くの人が思ったのではないだろうか。
流行り病で亡くなるとか、明治時代までの話なんじゃないの?と。
WHOや日本政府の対応を見ると、一つ思う事がある。
まさか、今まで、人類が無策で疫病を駆逐できてきたとでも思っているのか?と。
人口ウイルスの噂もあるが、今回の件で、多くの人が思い知ったことと思う。
流行り病は、過去の話などでは無いのだという事を。
<豊臣政権>悪知恵だけ達者な戦上手の小者、豊臣秀吉が、天下人になってしまったことで、この後の日本全土は、室町期以上に、大混乱の治世となっていく。
今でこそ、豊臣秀吉の治世をほめたたえられることも多いが、大半は失政の部類で、そのせいで政権自体は短命に終わっている。
1つとして、今まで戦争なので使用されていた、各大名家の税金を、豊臣家の贅沢の為に使用された。
豊臣政権下で、大坂城、伏見城、聚楽第、肥前名護屋城、京都新城と、どれも贅をつくした巨大な城を建築している。
今で言う、箱物行政というやつである。
また、自分の直轄領の税金は、朝廷や公家への賄賂に使いまくっている。
これで手に入れたのが、太政大臣の地位と、豊臣(成金の意味)という姓である。
2つめとして、後継者争いという、極めて私事なことで、公人である大名を大量に処分している。
これは、完全な公私混同。
当時の大名というのは雇用を担っており、大企業が地方行政を担っていたと考えると、総理大臣の個人的な家庭の都合で、大企業をいくつも倒産させたようなものである。
企業が倒産すれば、大量の失業者が発生する。
豊臣政権下で、問題になっていたのが、大量発生した浪人だった。
3つめとして、戦場にして荒廃した土地に、有力大名を国替えとして転封し、後片付けをさせている。
有名なのは、徳川家康で、北條家が討伐された後、その統治下であった関東一円をもらった。
その際、三河、遠江、駿河、南信濃は取り上げられている。
一方で、関東一円は、北條討伐の戦乱で、荒廃しまくっていた。
実は、この国替えは、徳川家だけではなかった。
東北仕置の後、豊臣政権から、監視者として選ばれたのは、木村吉清という人物だった。
この人物の出自はよく解っておらず、豊臣秀吉の下で、検知奉行として活躍した人物であるらしい。
恐らくは、下賤の生まれで、農民イビリで地位を得たようなカスということだろう。
木村吉清は、東北に赴任した後、目下イビリがさらにエスカレートし、法外な年貢の取立て、行き過ぎまでの厳しい検地、自分におもねる人物を登用し、元の大崎家の家臣を浪人に落とした。
木村の重用した部下は、各地で乱暴狼藉を働き、陸中は山賊に支配されたかのようになり、多くの人の恨みを買う。
伊達政宗の支援とも噂されるが、浪人と農民が、各地で反乱を起こすことになった。
指揮官と兵がそろった一揆は、超大規模反乱となり、各地の拠点を次々と陥落させ、木村吉清は、隣国の伊達政宗と蒲生氏郷に助けられ、なんとか落ち延びた。
この一揆で荒廃した陸中を、伊達政宗が拝領している。
大崎一揆の数年後、蒲生氏郷が若くして梅毒で病死。
蒲生氏郷が若くして亡くなったということは、その世継ぎの秀行は、幼少ということである。
だが、蒲生氏郷もさすがに麒麟児と言われただけの人物で、自分が梅毒になった後、優秀な家臣に蒲生の性を名乗らせ、郷の字を与えまくった。
一門同様に考え、幼い秀行を盛り立ててもらおうという考えだった。
ところが、蒲生姓をもらった人たちが、変に蒲生家を重要視しすぎてしまい、家中で派閥争いが激化してしまう。
この派閥争いは、明遠征による九州滞在、蒲生氏郷死を経て、激化の一途となり、ついには、蒲生秀行が、家中の統率がとれていないと、宇都宮に減封になってしまったのだった。
この時、蒲生騒動で荒れ果てた會津に、上杉景勝は加増転封になることなる。
前年に、豊臣秀吉の参謀の一人で、九州の大老、小早川隆景(毛利元就3男)が病死しており、西の毛利輝元、東の徳川家康、北の前田利家と、一門の宇喜多秀家に並ぶ、東北の要として、上杉景勝に白羽の矢が立ったのだった。
<秀吉の死>
豊臣秀吉は武家ではなく小者上がりの為、織田信長の下、古渡城、清州城、岐阜城、長浜城と、赴任地を転々としたことに、全く違和感を感じなかったのだろう。
だが、大半の大名は、元々から武家の出であり、武家は、そもそも自分の封地を守ることを職としている家である。
どの家も、どんなに大封への転封であっても、必ず部下から不平不満が出た。
中には、それまでの家を捨て、次の赴任大名に仕え直す者もそれなりに多かったらしく、転封することで、譜代の家臣が離反することがかなりあった。
当然、豊臣秀吉からの命は絶対で、大名は唯々諾々と従うも、多かれ少なかれ、恨みを抱いた。
後に豊臣方に参加した大名家を見ると、毛利、宇喜多、島津、長宗我部、眞田といったように、転封を受けていない家が多い。
更にそこに、関白豊臣秀次の切腹事件に、若い大名家が連座させられたりしており、大谷吉継や、石田三成といった奉行衆がその件をうまく処理できず、徳川家康によって連座から免れるといったことがあり、若き大名家の多くから、豊臣家は見限られはじめていた。
豊臣秀吉が亡くなると、そうした、豊臣秀吉への怨嗟は、大谷、石田といった奉行衆への怒りとして表面化していった。
上杉景勝は、5人の年寄り衆の中でも、宇喜多秀家に次いで年若く、宇喜多と同じく小領で、繰り上がりの感があり、年寄り衆の中では、明らかに軽んじられていた。
豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康は、簒奪の野心をむき出しにしていた。
小早川隆景が亡くなった際、年寄り衆への追加する家について、徳川家康は、上杉家ではなく、結城家をゴリ押ししようとしていた。
結城家の当主は、当時、徳川家康の次男の秀康(結城秀朝)で、秀康は、豊臣秀吉の養子になっていた為、宇喜多秀家と並ぶ一門の大老で、かつ宇都宮の大名ということで、東北の押さえとして最適という主張だった。
毛利家が小早川家と1つの家で2人の大老を排出していたのだから問題ないということだったが、最終的に前田利家、宇喜多秀家と、奉行衆の反対にあい、当の結城秀康も拒否したことで叶わなかった。
だが、徳川家康は、上杉景勝を全く同じ年寄り衆として扱わなかった。
徳川家康が、若き武断派大名と共に、大谷、石田といった奉行衆と対立すると、前田利家と上杉景勝は、露骨に徳川家康を牽制した。
この時点で、徳川家康は、年寄り衆として後継者を徳川秀忠と指名しており、前田利家は、前田利長を指名していた。
ところが、この重要な局面で、前田利家は往生してしまう。
残念ながら前田利長は、自分のことだけで手一杯で、国政に関与できるほどの器量ではなかった。
それは、前田家の家臣達も同様で、これまでも前田利家と妻まつの人となりに支えられていた家だった。
結局、東日本の総大将、徳川家康の暴走を止めるのは、もはや東北の番人上杉景勝しかなく、上杉の管領と言われた直江兼続は、奉行衆と共に、徳川家康を牽制することになった。
奉行衆の書いたシナリオはこうだった。
上杉景勝が徳川家康の専横に怒り、所領に帰ったことにする。
徳川家康は、自領が上杉軍に攻められる危険と、中央の政争を天秤にかけ、自領に戻る方を選ぶだろう。
その間に、上杉家は徳川家を弾劾し、奉行衆は徳川家を中央の政争から遠ざける手続きを粛々と進める。
最終的には、徳川家康を謀反人として討伐する。
<長谷堂城決戦>
上杉景勝は、會津に帰参すると、参謀の直江兼続は直江状という、超絶長い書面によって、徳川家康を糾弾。
激怒した徳川家康は、上杉景勝が、「政権補佐を放棄して勝手に」會津に帰参したとして、「政権に対する謀反」と宣伝し、討伐軍を組織した。
徳川軍が東海道を東上すると、奉行衆は、徳川軍に賛同した将の家族を拘束。
はっきり言って、この奉行衆の行動は完全に失策だった。
徳川軍に賛同した将たちは、退路を断たれてしまい、徳川家康を正義として押し通すしかなくなってしまった。
さらに奉行衆は、徳川家康の京都の居城だった伏見城を攻略する一方で、徳川家康に対し、「勝手に私闘をしようとしている」として、蟄居を命じた。
謀反人に仕立てられてしまった徳川家康は、家族を人質にとられて同様する武将たちを見て、大きな賭けに出た。
現状を伝え、奉行衆が豊臣政権を私物化しているから正そうと思うと宣言した。
頭のあまり良くない将が賛同し、周りもそれに流された。
そこで徳川家康は軍を3つに別ける。
東北の諸将を中心に、結城秀康(徳川家康次男)を大将に上杉家への備えとした。
徳川譜代の将と、関東の将を中心に、徳川秀忠(徳川家康3男)を大将に、中山道を西進させた。
豊臣の武断派の将を中心に、徳川家康が大将として、東海道を西進したが、徳川家康自身は、蟄居処分を科されているため、江戸にとどまっていた。
徳川家康としては、中山道を行く徳川秀忠隊は大軍であり、奉行衆を蹴散らせるだろうから、そうなれば、武断派の将を加増することなく、徳川の天下が来て安泰だと考えていた。
ところが、徳川家康の思惑は、どんどん遠ざかっていくことになる。
上杉家討伐軍の中から、眞田昌幸が離反しており、中山道の途中、信濃上田城で徹底抗戦に出た。
その為、主軍だった徳川秀忠の軍は、完全に足止めをされてしまい、西進できなくなってしまった。
一方で東海道を行く武断派の将は、尾張あたりで大将の徳川家康が動かず足止めされてしまう。
さらに結城秀康の東北軍は、上杉軍の完璧な防衛戦を攻められずに戦線膠着。
徳川軍は遠征軍であり、戦況が動かないということは、すなわち兵糧攻めを意味していた。
そこで武断派の将は、徳川家康の参陣を促すのだが、徳川家康は、武断派が裏切っていて、自分を殺害しようとしていると駄々をこねた。
痺れを切らした武断派の将たちは、岐阜城を攻め落していく。
かってにやられてしまい、もし奉行衆を単独で撃ち破られでもしたら、徳川家康が今後の音頭が取れなくなると、急いで東海道を西進することになった。
美濃に到着した徳川家康は、武断派の将を率いて、奉行衆と対戦することにしたのだった。
上杉軍は、膠着した會津戦線とは別に、直江兼続を指令官として、最上家の山形城を攻め、後方を安泰にしようとしていた。
ところが、山形城の支城(本城を補佐する城)の1つ長谷堂城を攻めあぐねた。
長谷堂城は、山形盆地の南西の小さな小山に建てられており、西方を白鷹山に囲まれ、東方には水耕地が広がり、見た目以上に難攻の城だった。
そこに最上家最強の将鮭延秀綱が籠城し、奮闘していた。
そこに1つの報が届く。
石田三成他の奉行衆が、徳川家康によって討ち破られてしまったのだった。
上洛した徳川家康は、自分たちこそが正義で、石田三成たち、自分に刃向った家が謀反人だと主張。
豊臣秀頼もそれを承知し、戦後処理を徳川家康たちに任せてしまった。
本来、豊臣秀吉の遺言からすれば、喧嘩両成敗であり、徳川家康側もかなりの罰を受けるのが当たり前だった。
ところが、徳川家康は、奉行衆側に付いた大名たちを徹底して懲罰した。
毛利家は周防・長門のみに領土を豪快に削られ、宇喜多家、長宗我部家、眞田家などは改易(取潰し)となってしまった。
上杉家も、改易こそ免れたものの、會津から、米沢のみに、豪快に減封されてしまった。
この一件により、豊臣家の権威は地に落ち、徳川家康は以降、覇王としてふるまうようになっていくのだった。
<以降の上杉家>
上杉家は、豪快に減封されるのだが、その版図は、戦前の直江兼続の封地にされてしまった。
ところが、上杉家の将の多くは、ほとんど下野することなく、そのまま仕官し続けた。
当然、家臣の数が減らないという事は、全ての家臣の俸禄は笑っちゃうほど少なくなったということで、食べて行くだけでやっとという状況になっていた。
そこで、直江兼続は、武家屋敷の生垣に、腹が減ったら食べるようにと、実を付ける植物を植えさせた。
家臣達の多くは、捲土重来を唱え続けていたようだが、直江兼続は、粘り強く説き伏せ続けた。
時は下り、徳川家康は、最後の仕上げとして、豊臣家を改易しようと、大坂城攻城戦を始める。
大坂冬の陣では、見事に眞田幸村に釣られて、大損害を被ってしまうのだが、大坂夏の陣では、京の守備をしており、徳川幕府の中の藩主としての務めを果たしているが、石高の加増はなかった。
上杉景勝は暫く後に隠居し、嫡男の上杉定勝が2代藩主となっている。
上杉定勝の次には、子の上杉綱勝が継いでいるのだが、残念ながら子宝には恵まれなかった。
上杉定勝は、娘を吉良義央という、人物に嫁がせている。
吉良義央は、元々は徳川家康の出身地である三河の守護を務めていた家の当主で、儀式を伝承する、高家を設立した人物である。
上杉綱勝は、吉良義央の長男を養子としており、上杉綱憲として4代藩主としていた。
上杉綱憲が藩主となると、一つの事件が発生する。
実父吉良義央は、播磨赤穂藩主の浅野長矩と共に、江戸城に天皇を招くための準備を行うことになった。
高家としての初仕事に、はりきる吉良は、浅野に対し、かなり威圧的な態度で臨んでしまったらしい。
しかも、吉良は、その後、浅野の若僧は、全く使い物にならなかったと、功績を独占するような言動を繰り返していた。
そんなある日、江戸城で吉良は浅野に斬りつけられてしまったのだった。
流血を病的に嫌う徳川綱吉は、浅野に対し、切腹を言い渡し、さらに赤穂藩も改易とした。
一方で吉良に対してはお咎めがなく、明らかに不公平感があった。
逃げようとして、背中を斬られた吉良を、腰抜けとあざ笑う声も多かったらしいが。
突然主家が改易になり、露頭に迷った藩士たちは、吉良邸を襲撃。
吉良義央は討ち取られてしまったのだった。
この時、上杉家の動向が注目されたのだが、上杉綱憲は全く干渉せず、赤穂の47人の浪人は忠義の烈士と称され、忠臣蔵として有名になる一方で、上杉家は腰抜け、武神謙信が泣いていると、散々に酷評されることになるのだった。
この後、上杉家は、積り積もった借金で、極度の財政難に陥ることになる。
上杉綱憲の後は、嫡男の吉憲が5代目となり、その後、吉憲の子たちが継いでいくのだが、残念ながら断絶。
9代目として、担ぎ出されたのは、日向高鍋藩6代藩主、秋月種美の子。
秋月種美の妻は筑前秋月藩4代当主黒田長貞の娘で、黒田長貞の妻が、上杉綱憲の娘。
つまり、母の母の父が上杉綱憲という、非常に苦しい継承だった。
実は、上杉景勝以降、男児にあまり恵まれず、本当に男系が絶えてしまっていた。
藩主に就いた、上杉治憲が目にしたのは、笑っちゃうほどの真っ赤っかな財政状況だった。
上杉治憲は、財政立て直しの特命の家老を登用し、聖域の無い財政改革に着手し、少しずつ粘り強く財政を再建していった。
上杉治憲は外から来た殿様で、家老も特命だった為、よそ者が藩政をめちゃくちゃにしていると、常に抵抗勢力によって抵抗されたそうである。
上杉治憲は、後に鷹山という号を用いている。
上杉鷹山には、とても有名な言葉がある。
成せばなる、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬ成けり
(やろうと思えばどんなことでもできる。できないのはやろうとしていないからだ)
なんだか、ブラック企業の社是のようだが、実はこれ、藩祖上杉謙信の最大のライバルだった、武田信玄の名言のパクリだったりする。
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上杉家・長尾家 その13
http://kazwak.exblog.jp/29997345/
2020-04-08T16:35:00+09:00
2020-04-08T16:35:20+09:00
2020-04-08T16:35:20+09:00
kazwak1
甲信越
平清盛が都で専横を振るうと、以仁王が各地の源氏勢力に、平清盛の追討を促した。東国では、木曾の義仲、甲斐の武田信義、義光親子、信義の弟安田義定、鎌倉の頼朝が挙兵した。木曾の義仲は、前2回の戦乱の中で、父義賢を頼朝の兄義平に殺害されている。父が弑された時、まだ幼少だった義仲は、木曾の地方長官だった、中原兼遠に保護され育った。その中で、中原兼遠の兄弟たちと懇意になっていった。中原兼遠の子、今井兼平、樋口兼光は、根井親子と共に、有能な指揮官として、平家軍を撃ち破っていき、妹の巴は、妾となった。平家を都から追い出すまでの義仲と木曾軍は、軍神そのものだった。だが、そこからは政治の世界となり、政治関係に強い部下を招くことのできなかった義仲は、次第に没落。最後は、頼朝の弟義経によって、宇治川で討たれてしまう。その木曾軍は、今井兼平が常に戦場で義仲を支えており、留守を樋口兼光が守るという陣容だった。義仲が戦死した後、今井兼平も、後を追うように討死しているのだが、樋口兼光は別働隊だった為、生き延びていた。主君と兄の死を知った樋口兼光は、自分も後を追おうと、都に攻め込むのだが、説得され投稿。蒲冠者範頼は、兄頼朝と共に、後白河院に樋口兼光の助命を願い出たのだが、後白河院は断固として許さず、樋口兼光は処刑されてしまうのだった。兼光には光信という子がいたようで、父処刑後、越後に落ち延び、子孫は国人になっていったらしい。その樋口光信の子孫が、上田で長尾家に仕え、家老待遇を得ていた。上杉輝虎の時の当主が樋口兼豊で、子の兼続は、直江家の婿養子になっている。それが、上杉家の管領とまで言われた直江兼続。
なお、宇治川で逃がされた巴は、後に十三人の合議の一人和田義盛に嫁ぎ、朝比奈義秀という子を設けている。朝比奈義秀の子孫は、和田合戦の敗戦後駿河に移り住み、子孫は今川家で軍の重鎮となっている。その一人朝比奈泰朝は、今川氏真に最後まで付き従った一人である。
<滅亡の危機>上杉家と越後を一つにまとめ上げた上杉景勝だったが、この時代多くの地方政権が抱えた悩みを、抱えることになる。
先代の上杉輝虎が、越中の手取川で退けた織田軍の侵攻が、いよいよ本腰になってきたのだった。
上杉家にとって、最悪だったのは、先の内乱で有能な中級指揮官と、多くの兵が犠牲になっており、対戦する為の軍資金は、同盟の為に武田家に譲渡されてしまっていたことだった。
つまり、兵も金も、さらに兵を引きいるベテラン指揮官も乏しい状況だったというわけである。
さらにいえば、父長尾政景の死後、上田衆を率いていたものの、中心の人財はまだ若く、内政官がメインで、さらに経験も絶対的に不足していた。
能登と越中に侵攻した織田家の柴田軍に対抗する為、上杉景勝は、先代の遺臣を能登に派兵し、自身は越中の魚津城で指揮を執った。
この時期、織田家では、当主の織田信長が隠居し、嫡男だった織田信忠が当主なっている。
その当主率いる主軍の本拠は美濃の岐阜城で、信濃を森長可(森蘭丸の兄)に、上野を滝川一益に率いらせていた。
すでに武田家は新府城での籠城戦をするしか無いような状況で、一族の離反が相次いでおり、もはや滅亡がカウントダウンされている状況だった。
森長可軍は、信濃から越中に入り、柴田郡は加賀から進軍、一方の上杉方では、織田の調略で新発田重家が謀反するという、ボロボロの戦況だった。
戦国最強とうたわれた上杉軍の司令官達だったが、元帥の強烈な指揮の元での精悍さが売りであり、現場の判断で動くのは、それほど得意とはしておらず、戦況は柴田軍の一方的な状況だった。
既に武田家は天目山で自刃し滅亡しており、北信濃で兵をまとめあげた森長可軍までもが、越中に流れ込んできた。
気が付けば、敵は前線の司令部である魚津城に迫っており、籠城を余儀なくされた。
その魚津城も、落城寸前となり、上杉景勝を密かに逃し、先代の遺臣の子弟で徹底抗戦することになった。
結局、もはやこれ以上は持たないと察した籠城の諸将は自害、魚津城は落城したのだった。
ところが、柴田軍はそれ以上攻めてくることはなかった。
魚津城落城の前日、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれてしまったからである。
<本能寺の変>
それが明智光秀による計略だったのかどうかはわからないが、織田信長の死は、瞬く間に織田領の境界に触れ回られた。
それを聞いた信濃、上野、甲斐では、反乱が多発。
織田の各軍は美濃方面へ撤退準備を始めるのだが、北信濃軍の森長可は、反乱軍に攻め立てられ、一部の幹部だけでの撤退を余儀なくされた。
甲斐軍を編成中の河尻秀隆も、状況は同様で、織田信長の死を知った武田軍の残党が、各地で反乱を起こし、反乱軍によって殺害されてしまった。
織田家の方面軍司令で、最も悲惨だったといえるのが瀧川一益だった。
織田信忠軍団の補佐軍団だった瀧川一益は、武田家崩壊後、上野を拠点にしていた。
北條家から従属を取り付けたことで、北條家の属将となっていた関東公方足利義氏から、関東管領に任官させてもらい、織田信忠軍団から独立していた。
織田信長の死を知った瀧川一益は、上野の兵をまとめあげ、明智光秀討伐の弔い合戦を行うべく、準備を整えていた。
ところが本能寺の変を聞いた北條氏政は、薄情な野心家の血が騒ぎ、従属の約束を破棄し、瀧川軍を襲撃。
軍団の大半の兵に背かれた状態になった瀧川軍団は、神流川で完敗。
退路となっている北信濃の森軍、甲斐の河尻軍の支配地域がすでに反乱軍に支配され、まともな退路が無く、瀧川一益の退却路は、徳川家康の神君伊賀越えが甘く感じるほどの地獄だった。
上杉景勝にとっても、本能寺の変は、上杉家滅亡から旧領回復までの千載一遇のチャンスだった。
ところが、瀧川軍を撃破した北條氏直軍が上野から後退せず、主軍はそちらに向けられており、越後東部で反乱した新発田重家も織田軍と同調していたため、越中方面にはお茶濁しの兵しか送れず、魚津城を奪還する程度しかできなかった。
<甲信越三国志>
森軍の支配地域は反乱軍の支配となった。
そこで反乱軍の旗頭に推されたのは、旧支配者の海野家の一族、眞田昌幸だった。
この眞田昌幸は戦国時代にあって、毛利元就と並ぶ鬼謀の人物で、北信濃の小領主でありながら、ここから、後に「寝業師」やら、「表裏比興」などと言われる華麗な転身を披露し、周囲の大国を翻弄しまくっていく。
眞田家は、瀧川軍に代わり上野を守るべく、北條家に臣従し、徳川軍を撃破。
ところが、上野を接収しようとした北條家に反攻し、眞田家は徳川家に従順先を変更。
この頃、徳川家は、畿内を抑えた羽柴秀吉に攻め込まれており、主軍を信濃には向けられなかった。
そこで、徳川家康は、北條軍とはすぐに戦闘を止め、眞田領を共同で潰そうとした。
すると眞田家は上杉家に従属。
上野の沼田城に攻め込んだ北條軍を、眞田昌幸の叔父矢澤頼綱が撃退。
上田城では、眞田昌幸が徳川軍を撃退。
これから、眞田領を巡って北條、上杉、徳川の3家が潰し合わなければならない事が容易に想像できる状況になってしまうのだった。
ところが、ほくそ笑む眞田昌幸の顔が蒼白になる事態が起こる。
徳川家康、上杉景勝が羽柴秀吉に降伏したのである。
<豊臣秀吉>
羽柴秀吉は明智光秀を山崎の戦いで撃つと、清州で織田家の後継者を決める会議を開いた。
各地の軍団長と織田一門の重鎮が参加する清州の会議だったが、本能寺の変関連での戦死者が多く、本来の参加者からは、かなり違う顔ぶれとなった。
軍団長で無事出席できたのは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉のみ。
柴田勝家と羽柴秀吉が対立するのは目に見えているため、織田信長の乳母の子、池田信輝を参加させ4人で会議をまわした。
そこに織田家の人物が含まれなかった為、議題は、織田信長、信忠直轄領及び、旧明智領の分配がメインとなった。
会議参加の4名は、旧領から大きく領土を拡大。
この会議によって、旧織田家のかなりの城主たちが、大名として独立することになった。
独立した大名の中で、露骨な野心をむき出しにしたのが、中国方面軍の羽柴秀吉だった。
織田家の将軍たちも、誰もが独立した大名として、領土拡大レースに参加したかったわけではなく、大きな勢力に迎合したがった家も多かった。
そこで、羽柴秀吉は、旧織田家の大名として、柴田勝家との衝突を選んだ。
こうした大勢力同士の決戦の場合、中立は許されず、どちらかに組しなければ不戦敗扱いになる。
上杉景勝の元にも、羽柴秀吉から共闘の呼びかけがあった。
柴田勝家を攻めるから、上杉景勝も同時に越中に攻め込んで欲しいという内容だった。
当時、柴田軍団は4つに別れていた。
越前、加賀が柴田勝家の直轄、能登が前田利家、飛騨が金森長近、越中が佐々成政。
いざ、羽柴秀吉が柴田勝家と、越前と近江の国境、賤ヶ岳で決戦におよぶと、上杉景勝も越中へ侵攻。
ところが、柴田勝家は、佐々成政に越中の死守を命じており、上杉景勝には、全く手が出せなかった。
柴田勝家の支配軍団の前田利家が羽柴秀吉に寝返ると、金森長近は降伏、佐々成政は越中死守に固執。
結局、柴田勝家は居城北の庄城で籠城の末自害。
次に、羽柴秀吉が目を付けたのが、三河の徳川家康だった。
柴田勝家を撃ち破るまでに、美濃の織田信孝、伊勢の瀧川一益をついでに撃ち破っており、次の大物が徳川家康だった。
上杉家も、この時点で上田の眞田家を挿んで徳川領と接しており、今度こそという気持ちはあったのだろう。
ところが、眞田昌幸の寝返りにつぐ寝返りで、上野の北條家も相手にせねばならず、どうすることもできなかった。
その後、羽柴秀吉は、越中の佐々成政も討伐。
結局、中央のチャンピオンカーニバルを全く利用できず、大した成果を上げることもできなった上杉景勝は、天下(畿内周辺)を完全に掌握した羽柴秀吉に、従属することになるのだった。
羽柴秀吉は、決戦前に味方に付いた家は、非常に手厚く遇した。
当然、そうすることで、攻略相手に、抗戦より降伏を選ばせやすくなるという効果を狙ったものだった。
上杉家は、毛利家、宇喜多家のように、厚遇を受けることになる。
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上杉家・長尾家 その12
http://kazwak.exblog.jp/29944203/
2020-03-02T14:09:00+09:00
2020-03-12T22:34:00+09:00
2020-03-02T14:09:53+09:00
kazwak1
甲信越
上杉謙信没後、御館の乱と呼ばれる相続争いが発生している。対立したのは、上杉謙信の姉、綾の長女を娶った、上杉景虎と、綾の次男、上杉景勝。
現在、原因は、実子の無い上杉謙信が、後継者を定めずに亡くなったからということになっている。
普通に考えれば、男系である上杉景勝が継ぐのは当たり前のように思え、家中を割るほどの大乱になるとは考えづらい。
こういう場合、後世に何かしらの歴史の書き換えがあった可能性が高いと思われる。
そう考える人も多いようで、実は、上杉謙信は、上杉景勝には越後上杉家、上杉景虎には関東管領職を継承さたという説を唱える人がいる。
上杉景虎陣営のトップが上杉憲政であるから、かなり可能性は高いと思う。
ただ、この時期の関東管領職を、上杉景勝が、家を割ってまで欲しがるとは到底思えず、かなり仲が悪かったとしても、謙信の意向を無視して、景虎を滅ぼす必要性を感じない。
まあ、潜在的な反乱や謀反の種を潰しておきたいという考えはあるだろうが。
私は、上杉謙信は、上杉景虎を後継に指名したのではないかと思っている。
上杉謙信はどうやら、父長尾為景の後継者を、姉の綾だと考えていたらしい。
そこで、綾の長女を上杉景虎に娶らせ、跡継ぎにした。
史料には、長女は畠山義春に嫁いだとされているのだが、それぞれの年齢を考えれば、ちょっと考えづらいだろう。
最終的に、畠山義春は上杉景勝陣営に組したので、後継の資格があるのに、上杉景勝を推した人物という扱いになり、長女を娶ったと歴史を改竄されたのだと思う。
この件からすると、上杉景勝の家督継承は、都合の悪い部分を後に改竄しまくった、極めてダーティーなものだった可能性が出てくる。
だとすると、そんなダーティーな上杉景勝を、なぜ多くの国人が支持したのかという疑問がでてくる。
恐らくだが、男の後継者がいるのに、女系で継承していくのは、問題があると考えた人物が多かったのではないかと思う。
上杉謙信に越後の未来を託したものの、結局は、ほとんど領土は増えなかったという不満が燻っており、上杉謙信の統治の後半では、その求心力もかなり翳っていたのではないだろうか。
今回は、最近言われている説で記載したいと思う。
<軍神の死>上杉輝虎は、正妻もおらず、妾もいない、戦国時代でも、ほとんど例のない人物だった。
当然、本人が亡くなれば、その後には、跡継ぎ問題が大きな問題となってくる。
上杉輝虎は末っ子で、長兄長尾晴景は、父長尾為景の家臣にすら見捨てられ、隠居。
その数年後、ひっそり息を引き取っている。
この晴景は異母兄で、同母兄として、景康、景房がいたが、府中長尾家に取って代わろうとした、黒田秀忠によって攻め殺されている。
為景には、晴景と同母の娘綾(仙桃院)がおり、分家の上田長尾家の長尾政景に嫁いでいる。
上杉輝虎は、生涯で、4人の人物を養子としている。
最初に養子にしたのは、北信濃の豪族で、武田信玄の攻撃を何度も防ぎ切った、村上義清の子、国清。
養子にしたのは、越後の内乱が収束し、第1回川中島の戦いの翌年。
後に、上杉輝虎が、山内上杉家を継ぐと、越後守護上杉家の4代頼方が継いだものの、断絶してしまっていた、山浦上杉家を相続し、山浦上杉国清を名乗っていた。
上杉輝虎的には、一門の扱いはするが後継の扱いはしないという、庶子のような扱いだったらしい。
2人目は、上田長尾家の長尾政景と、姉綾の子、顕景。
2度目の関東の進出が失敗に終わった頃、父が亡くなり、上杉輝虎の養子となり、名を景勝に変えている。
3人目は、北條氏康との同盟の際、北條家の一門から養子を前提にされた人質、景虎。
北條氏康の7男だとされるが、北條家での待遇を考えると、相当眉唾だと思われる。
北條氏康の叔父、幻庵(長綱)の婿となっていたが、越相同盟の際、人質として越後に送られてきた。
本来は、北條氏政の3男(長男は夭折、次男が氏政)が送られる予定だったのだが、関東の岩槻太田家(太田資正の家)に養子に出すことになり、景虎に変更になっている。
北條家での名も不明で、もしかしたら、北條家の人物ですら無い可能性すらある。
上杉輝虎は、この景虎の生い立ちに同情したようで、自身の初名である景虎を名乗らせ、姉綾の長女(景勝の姉)を娶らせていた。
この時、既に嫡男道満丸が生まれていて、9歳になっていた。
4人目は能登畠山家8代義続の子義春。
畠山家滅亡後に、越後上杉家の分家の上条家当主、上条政繁の養子となり、その後、綾の次女(景勝の妹)を娶り、上杉輝虎の養子となっている。
上杉輝虎死亡時の年齢は、国清31歳、景勝21歳、景虎23歳、義春14歳。
上杉輝虎は、どうやら、女性を主体とした家督の継承を考えていたらしい。
従弟に長尾謙忠という人物がいたのだが、この人物を処罰し亡くしており、その子も戦死し、男系が誰も残っていなかったのだから、やむを得なかったのだろう。
<上田長尾家>
関東管領の上杉憲顕は、自身の絶大な権力基盤を、子供たちに分割相続させてる。
その中で憲栄には、越後守護を相続させている。
越後守護の上杉憲栄は、上杉家の家宰だった長尾景忠の弟、景恒に補佐を頼んだ。
長尾景恒には、4人の男児がおり、そのうち高景の府中家(三条市)が代々守護代を務め、景晴が西の古志家(長岡市)、長景が南の上田家(魚沼市)と分家していった。
歴代の府中長尾家当主が、守護代として活躍していた頃、古志家も上田家も、府中家を支えていた。
ところが、長尾為景の時に、守護と守護代が完全に対立することになる。
その際、古志家の当主長尾房景も、上田家の当主長尾房長も、関東管領の上杉家に味方しているが、長尾為景が越後を掌握すると、長尾房景は為景に寝返り、長尾景長も降伏している。
長尾為景が隠居する頃、それぞれの当主は、古志家が房景の子景信、上田家は房長の子政景になっていた。
恐らく、両家共に、長尾晴景を支えていたと思われる。
ところが、栃尾城で長尾景虎が抜群の軍功を挙げると、栃尾城主だった本庄實乃が中心となり、長尾景虎を当主にという声が上がり始める。
長尾景信は、これに同調するのだが、長尾政景は、妻と同母の長尾晴景を支持し続けた。
だが、既に多くの家臣に見放されていた長尾晴景は孤立。
長尾政景は、長尾景虎軍に攻め落とされることになるのだった。
その後、降伏した長尾政景は、重臣の直江實綱と共に、政務を統轄し、長尾景信は軍務を統括した。
長尾景虎が、山内上杉家と、関東管領を継承すると、長尾景信も上杉姓を名乗る。
ところが、長尾政景は、上杉姓の名乗りを許されなかった。
はっきり言って、内政はないがしろにしていた上杉輝虎である。
遠征から帰るたびに、政務について小言ばかり言われていたのだろう。
ある日、長尾政景は、舟遊びをしていた所、転覆し溺死してしまう。
長尾輝虎に重用されず没落した、宇佐美定満による暗殺と言われている。
まあ、政務官だったので、裁定など色々と恨みを買う事も多かったのだろう。
子として男児が2人おり、長男の義景は早世し、次男が顕景が後を継いだ。
その後、義兄の死を不憫に感じた上杉景虎は、顕景を養子にしたのだった。
<直江家>
後に「上杉の宰相」と呼ばれる直江家だが、直江實綱までの実績はほとんど残っていない。
直江實綱が生まれた頃、直江家は、越後守護上杉家の家臣、与板城主の飯沼家の将だった。
時の越後守護、上杉房能と、守護代長尾為景が対立すると、長尾為景に当主の飯尾頼清が攻め滅ぼされてしまうのだった。
当時15歳だった直江實綱だが、長尾為景に見いだされ、以降、飯沼家に代わり与板城主となる。
いわゆる神童や麒麟児というタイプの子だったのだろう。
長尾為景が隠居する事態になる頃には、まだそれほど発言力が無かったようで、流されるしかなかった。
だが、長尾景虎がその戦才を発揮すると、本庄實乃に誘われ、クーデターに参加。
以降は、長尾景虎の宰相として、サポートすることになるのだった。
長尾景虎が、山内上杉家を継ぎ上杉政虎を名乗ると、直江實綱も、直江政綱を名乗り、上杉政虎が将軍から輝の字を賜ると、長尾家の通字の景を賜り、直江景綱を名乗るのだった。
上杉輝虎が亡くなる1年前、上杉軍が能登を攻略している頃、病死。
そんな長尾家の重鎮直江景綱だが、かなり女性関係で苦労している。
妻は3人娶っており、最初の妻は北条家の娘で男児を設けているのだが、母は早くに病死し、男児も夭折している。
2人目の妻は、山吉家の娘でブスの大女で、妻の姪に寝取られた挙句離縁されている。
男児を産んだ2人目の妻の姪が3人目の妻となるのだが、生まれた男児は誘拐され行方不明に。
結局3人目の妻との間には、その後、娘しか生まれず、唯一の娘、船が養子をもらう事になる。
山内上杉家を当主の長尾景虎が継いだ事で、府中長尾家は、山内上杉家と融合する必要があり、その関係から、直江實綱は、山内上杉家の家宰総社長尾家から長尾顕方の子を婿養子に貰い、直江信綱を名乗らせ、跡継ぎとしていた。
<御館の乱>
上杉輝虎の、「女性を以て後継とする」という考えは、極めて珍しいものではあったが、決して斬新なものではなかった。
現に、隣の蘆名家は、17代蘆名盛興の後、妻の彦姫(大叔母(13代盛高の娘)の孫)を後継として二階堂盛隆を18代目の後継とし、その後は、盛隆の娘れんみつを後継とし、佐竹義廣を20代目(19代目は早世)の後継としている。
もしも、上杉景虎が、北條家からの人質ではなく、例えば上杉家の分家や、どこかの長尾家の分家や、越後の国人の子息であれば、多くの人物が上杉景虎を支持したことだろう。
そんな空気を感じたので、上杉輝虎も、景勝を慌てて養子にしたらしい。
御館の乱は、景虎と景勝で争われるのだが、この二人の仲は実の兄弟のようだったらしい。
元々、景虎は景虎で、北条出身の自分が、上杉の家督を相続するなどおこがましいと思っていたらしく、景勝は景勝で、輝虎のように出家して、生涯不犯が格好良いなどと思っていたらしい。
そこで、上杉輝虎は、二人が納得のいく折衷案として、後継者は景虎の子、通満丸とした。
だが、通満丸はまだ幼少で、父の景虎は実務経験が乏しく、後見できる状態とはお世辞にもいえなかった。
そこで、実父長尾政景の死後からずっと、上田衆を束ねていた、上杉景勝を後見に据えることになった。
上杉輝虎は、自分亡き後、上杉家を後見してもらう家が必要だと考えていた。
目の前に織田家という新たな脅威を抱え、どう考えても、上杉家だけで、生き残るのは不可能だと感じた。
この頃、織田家以外の近隣の家は、武田、北條、蘆名、伊達、最上。
当初考えていたのは、もしかしたら、武田家だったのかもしれない。
だが、武田晴信亡き後、後を継いだ武田勝頼は、輝虎が亡くなる2年前に、長篠の戦いで、織田家と徳川家の連合軍に大敗北を喫してしまっており、これから滅亡に向かい家勢を落としていくのは明らかだった。
そこで、同じ関東公方を抱くはずの北條家ならば、関東管領の上杉家を、無下にはしないだろうと考えたのだった。
その為にも、上杉景虎の血を後継にしたかったという側面もあったのだろう。
ところが、後見人の上杉景勝は、継承早々に判断ミスをしでかしてしまう。
上杉景勝は非常に偏屈な人物で、一旦疑うと、考えを改めるということをしなかった。
家督継承の慶賀の挨拶に来た蘆名盛氏の動きが不穏だと、警告した家臣がいた。
だが、上杉景勝は、不穏な人物が慶賀の挨拶に来るわけがないと、必要以上にその家臣を追いつめた。
ところが、残念ながら、蘆名軍は攻めてきたのだった。
この一件は全家臣に知れ渡り、上杉景勝は思った以上にダメだったとなってしまった。
そこで、家臣を代表して、上杉憲政が、改めて上杉景虎を後見にするよう動いたのだった。
その結果、亡き輝虎が定めた後見人だからと景勝を支持する一派と、
亡き輝虎が定めた後継者だからと、道満丸と景虎を支持する一派で真っ二つに割れてしまった。
どうも、どっちに義があるのか、皆、判断が付きかねてしまっていたらしい。
良くわかるのは柿崎家だろう。
上杉家一の猛将とうたわれた柿崎景家は、能登攻めの前に病死しており、嫡男の晴家が後を継いでいた。
晴景は、上杉輝虎の交渉時の人質として扱われるほど、上杉輝虎に重用されており、檀家の状態だった。
上杉輝虎が没すると、当然のように、上杉輝虎が後継指名した上杉景虎を支持している。
ところが、柿崎晴景は暗殺され、家臣の一部は、幼少の嫡男、憲家を担ぎ、上杉景勝陣営に投降してしまったのだった。
どうやら、この投稿の背景には、旧上田長尾家の家老、樋口家による、寝返り工作が働いていたらしく、簡単に誘いに乗っている。
笑っちゃうことに、山城の春日山城を拠点とした景勝陣営は、平城の御館城(上杉憲政の為に建てた城)を拠点とした景虎を攻めたのだが、あっさり撃退されている。
それに乗じ、上杉景虎陣営も春日山に攻め込むのだが、あっさり撃退されてしまっていて、もはや戦では勝敗がつきそうにない状況だった。
上杉景虎陣営は、北條家に援軍を要請していた。
だが、この当時、北條氏政は、常陸の佐竹義重と抗争中で、主軍はそちらにとられていた。
そこで、同盟中の武田勝頼に、上杉景勝の討伐を依頼、武田軍は越後国境まで到着していた。
つまり、上杉景虎は、武田、北條と3国同盟の状態だったことになる。
上杉景勝の腹心で、上田長尾家の家老樋口兼豊の子、兼続は、今は武田軍は、織田の侵攻を防ぐのに躍起になっており、援軍など送っている場合では無いはずと考えた。
そこで、信濃海津城主で武田家の北信方面軍の司令春日虎綱(香坂弾正)に直談判。
武田勝頼の妹を上杉景勝が娶ることと、上杉家の軍資金を明け渡すことで、兵を引かせることに成功している。
これにより、一気に形勢の不利になった上杉景虎陣営は、夏に入り、景勝から提案された停戦案に了承している。
ところが、冬に入り、景勝軍は一方的に停戦を破り、御館に軍を向ける。
降伏勧告を受けた景虎陣営では、雪深い状況では頼みの援軍も望めず、降伏勧告を受諾する為に、上杉憲政が道満丸を連れて、春日山城へ向かった。
ところが、その道中、上杉憲政と、道満丸は、殺害されてしまったのだった。
最大の後援者である上杉憲政と、最大の希望であった道満丸を失った上杉景虎は、御館城を落ち延び、景虎陣営の鮫ヶ尾城へ妻である景勝の姉華と共に向かった。
そころが、鮫ヶ尾城主の堀江宗親は、既に上杉景勝陣営の安田顕元(安芸毛利家の分家)に調略を受けており、鮫ヶ尾城で孤立した所を上杉景勝軍に攻め落とされ、夫婦共々、殺害されたのだった。
この御館の乱は、予想以上に上杉家に大きな損害を与えてしまい、その後の上杉家に暗い影をおとすことになるのだった。
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