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上杉家・長尾家 その7

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戦国時代といえば、英雄がキラ星のように誕生した時代である。
三好長慶、毛利元就、織田信長、武田信玄、上杉謙信、北條氏康、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津義久、大名としては、この辺りが有名どころだろうか。
昔から、「英雄色を好む」と言われるように、彼らは、正妻の他に、妾を何人も囲っている。
子供を多く設けることも、当主たる人物の務めであるから、当然といえば当然なのだが。
ところが、上記の大名の中で、たった一人、正妻を設けもせず、妾もいないという人物がいる。
それが上杉謙信である。
非常に有名な話であるが、上杉謙信は女性だった可能性がある。
その証拠となるものはいくつもあるので、そうだったかもしれないとしか言いようがない。
では、仮に女性だったとして、なぜ男性にされることになったのかということである。
実は、江戸時代まで、大名の跡継ぎが、男性、それも嫡男である必要は無かった。
例えば、蘆名家では、「れんみつ」という女性が跡継ぎとされているし、古河公方も「氏姫」という女性を跡継ぎにしている。
それが、武家諸法度によって、大名の跡継ぎは男児に限ると決めたのだった。
上杉家は、ただでさえ、関ヶ原の戦いの発端となった敵国の家である。
どんな難癖をつけられるか、わかったものではない。
そこで、武家諸法度が発布された際、上杉謙信の肖像画に、後付けで髭を書き足し、男性であったとしたということなのだとか。





<府中長尾氏>
鎌倉時代に、三浦氏が討伐された際、共に討伐されてしまった長尾氏。
唯一生き残った長尾景忠が、縁故を頼りに、上杉家に身を寄せた。
室町時代の初期、その上杉家の上杉憲顕が関東の統治機構の主軸として、南朝勢力の討伐に追われていた。
先の長尾景忠の曾孫で、同名の長尾景忠は、1軍を率いて越後(新潟県)を転戦し、上杉家の家臣団の中で、不動の地位を築くことになる。

室町幕府が、統治機構を固め始めると、関東には、関東管領という組織が設置される。
本来は、足利尊氏の子、基氏を、幕府直轄の関東の総元締めの役職として、関東管領に任じたのだが、足利基氏の執事だった上杉憲顕は、足利基氏が亡くなると、基氏の子氏満が幼少なのを良い事に、自分が関東管領に就任し、足利氏満をお飾りの関東公方にしてしまう。
関東管領に就任した上杉家は、関東の統治の責任者として、関東各地を領有していくことになる。
この乱世の中で、長尾景忠は名実共に、上杉家の筆頭家老の地位を不動のものとしていき、一族を各地の守護代に推薦していった。
その際、越後の守護代として推薦されたのが、先の越後遠征軍の副将で、弟の長尾景恒だった。

<越後>
越後は、越の後と記載されるように、古代には越(古志・こし)という蝦夷の勢力の一部だった。
越後の南、下野(しもつけ・栃木県)、上野(こうずけ・群馬県)も、同様に、毛野(けの)という蝦夷の勢力があった。
さらに、毛野の南、武蔵(東京都と埼玉県)、相模(神奈川県)、下総、上総、安房(いずれも千葉県)には、総(布佐・ふさ)という蝦夷の勢力があった。
古志は、現在の福井県から新潟県という、北陸地方一帯を領した大勢力だったらしく、朝廷が接収する際、その領国は越前(福井県)、越中(富山県)、越後(新潟県)と三分割された。
その後、越中から、能登が切り離され、その能登から加賀が切り離された。
越後の「後」は、純粋に京都から遠い場所という意味である。

越後は、緩い川が何本も流れる広大で肥沃な平野地帯で、現在では、日本最大の稲作地帯として有名である。
稲は、東南アジアで生産が盛んなことからもわかるように、本来は温暖な地で作られるもので、広大な平地の越後で稲作ができるようになるまでは、かなりの品種改良を擁している。
戦国時代までは、越後は、今のように、日本一の米所という状況では無かったということである。

越後は、広大であることから、東は羽後(山形県)、岩代(福島県)、南を上野(群馬県)、信濃(長野県)、西を越中(富山県)と隣接している。
ところが、周辺には、異常に高い山々が多く、羽後からは朝日峠、岩代からは枝折峠、上野からは三国峠と、細い回廊のような地を通ってしか入り込めず、攻めやすく守りやすい地となっている。

<景恒>
初期の関東機構は、後の関東公方の足利家、それを補佐する関東管領(山内)上杉家が、それぞれ世襲していくような体制ではなく、幕府直轄の関東管領に足利家、それを1人ないしは2人の執事が補佐するという体制だった。
その片方をずっと勤めていたのが、足利尊氏の母方の従弟の上杉憲顕だった。
観応の擾乱では上杉憲顕は足利直義側につき、関東執事職を離れているのだが、足利直義が亡くなり、乱の責任を取り高一族が誅殺されると、上杉憲顕は復職を果たしている。
2代将軍の足利義詮も、関東管領の足利基氏も、幼い頃から自分を補佐してくれていた「じいじ」上杉憲顕に、非常になついていた。
その為、初代将軍の足利尊氏が亡くなると、上杉憲顕は、室町幕府内で最も発言力をもった人物となる。
老いた上杉憲顕は、関東に幕府の機構と同様の機構を作り出し、将軍に代わる関東公方を置き、その下に管領を置くという、後の関東公方独立の下地をつくってしまった。
本来は、幕府がピンチの時に、関東から援軍が出せるという目的だったのだろうが。
足利基氏が亡くなり、関東公方に幼少の足利氏満が就任すると、自身も後を追うように病死。

上杉憲顕の後に関東管領に就任したのは、嫡男の(宅間)上杉憲能と甥の(犬懸)上杉朝房だった。
上杉憲顕自身、自分の権力が尋常では無い事を心得ていただろうし、それを嫡男に全て譲ってしまったら、嫡男が目の敵にされて、上杉家自体が消し飛んでしまうと感じたのだろう。

(犬懸)上杉朝房は、上杉憲顕が関東執事として復職する際、一緒に出世した人物である。
叔父の上杉憲顕が出世するに従い、上杉朝房も、守護地を増やしていった。
当時、越後は南朝勢力が強く、土地も広大で、安定統治とは程遠かった。
そこで、二人の関東管領が、分割統治することになったのだった。

<高景>
越後守護代は、長尾景恒から、嫡男の長尾高景に移ったものの、越後は未だに南朝の勢力がくすぶり、長尾高景は必至に越後を安定させようと、戦場を駆け回っていた。

上杉家の本家では、嫡男の上杉能憲が40代で病死。
本家の地位や領土は、弟の上杉憲春が継ぐ。
ところが、中央で管領の細川頼之が専横によって讒訴されるという康暦の政変が発生。
すると、関東公方の足利氏満が、それに乗じて、幕府を攻めようする事態が発生。
関東管領の上杉憲春は、足利氏満を諌め、足利氏満もそれを聞き入れたのだが、関東管領という立場上、責任をとって自害することになってしまう。
上杉憲春には子が無く、家督は弟の上杉憲方が継ぐことに。

上杉憲方には、上杉憲英という弟がいた。
後に(庁鼻和(こばなわ))上杉家、(深谷)上杉家となっていく家の家祖である。
兄弟の中でも非常に野心旺盛な人物で、後に、奥州が関東公方の支配下に入った際、奥州管領という役職が置かれ、その役職に就いた人物である。
父上杉憲顕が亡くなった際、越後守護は、さらに弟の上杉憲栄に譲られる方向だった。
ところが、兄上杉憲英は、自分が継ぐべきだと駄々をこね、越後の情勢の不安定さもあり、越後は、関東管領の二人が管理することになった。
上杉憲栄は出家していたせいで跡継ぎとなる子が無く、世継ぎとして、兄上杉憲方の子、上杉房方を養子としていた。

もう一人の関東管領、(犬懸)上杉朝房も跡継ぎとなる子が無く、同じく上杉憲方の子上杉房方を跡継ぎとしていた。
本来であれば、いずれは上杉憲方が双方から越後半国ずつを受け継ぎ、単独で越後の守護になるはずだった。
ところが、晩年、(犬懸)上杉家と(山内)上杉家は、関係がギクシャクしてしまい、上杉朝房は、後継者を弟の上杉朝宗と、その子氏憲(禅秀)、氏朝に変更している。

長尾高景は、あきらかに(犬懸)上杉家が越後守護を簒奪しようとしているのを感じた。
そこで、上杉憲英が引退すると、まだ幼かった上杉房方を越後に招き、越後守護に就任させることに成功した。

越後守護代は、子の長尾邦景が継ぐことになるのだが、その頃から、関東公方と関東管領の野心がぶつかりあい、関東は安定統治とは程遠い、戦乱状態に突入していくことになる。
越後守護代も、否応なしに巻き込まれることになっていくのだった。

by kazwak1 | 2019-10-10 09:18 | 甲信越  

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