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上杉家・長尾家 その3

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関東争乱は、非常にわかりにくい。
それは関係者が異常に多いのが原因と思われる。
関東公方の影響範囲を列挙すると、
陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県)、出羽(秋田県、山形県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)、上野(群馬県)、越後(新潟県)、下総(千葉県北部)上総(千葉県中部)、安房(千葉県南部)武蔵(埼玉県、東京都)相模(神奈川県)、甲斐(山梨県)、伊豆(静岡県南東部)
後に、陸奥(陸奥、陸前、陸中、陸後、岩城、岩代)と出羽(羽前、羽後)には、足利満氏の子、足利満直が篠川公方(郡山市)、足利満貞が稲村公方(現須賀川市)として、それぞれ岩代(福島県)に赴任した事で、影響から脱するのだが、それでも広大な版図である。
解りやすく言えば、現在の東北地方と、首都圏に、新潟県が、その版図だったわけである。

それぞれの地に、守護、守護代、国人、土豪が存在している。
その広大な地の名目上のトップが、関東公方(鎌倉公方)であり、その公方を補佐する、関東の大名が上杉家だった。
例えば、上野は、上杉家の本家扱いだった山内上杉家が、関東管領で、なおかつ守護として、総支配者として君臨したのだが、その山内上杉家を補佐する守護代として、長尾家がおり、国人として、新田家の残党である横瀬家、岩松家や、長野家などがいた。
それぞれの国がそんな状況だった。
誰かが、何かしらの企みをすると、膨大な数の家が、その企みに巻き込まれ、それぞれどちらに着くかの選択を迫られた。
当然、上下一心というわけにはいかず、モザイク状に反乱が発生し、乱は関東一円に広がってしまう。

その状況が、最終的に、北條早雲が関東公方を機能不全にするまで続いたのである。




<関東管領>
元々、関東管領という職は、室町幕府においては、将軍のすぐ下に設置された職だった。
首都である京都周辺を管理する管領と並ぶ権威として、副都鎌倉周辺を管轄する関東管領だった。
その為、最初に就任したのは、足利尊氏の嫡男の足利義詮だった。
ただ、当時足利義詮はまだ少年で、補佐する大人が必要で、(山内)上杉憲顕と斯波家長が、関東執事に就任していた。
若き執事斯波家長は、南朝の名将北畠顕家の襲撃により戦死。
斯波家長に代わって、関東執事には、高師直の一族、高師冬が就任。
その後、足利尊氏の弟、足利直義が、高師直との権力闘争から、謀反を起こすことになる。

関東管領の足利義詮は、2代将軍として京都に召喚されることになり、代わりに、義詮の弟の足利基氏が、関東管領として派遣された。
足利直義は、兄足利尊氏、高師直の連合に勝利してしまい、高師直一族は政権から追放されることになる。
高師直の一族は、関東執事にも就任していたのだが、こちらも失脚。
足利基氏の執事としては、畠山国清も就任していただのが、協力していた管領細川清氏が、2代将軍足利義詮と対立し、失脚すると、畠山国清も失脚してしまった。

同僚が、足利将軍家の内輪もめによって、次々に失脚していく中、(山内)上杉憲顕は、従兄弟の(宅間)上杉重能、(二橋)上杉朝定や、弟の(犬懸)上杉憲藤、家宰の長尾景忠と共に、南朝勢力の侵攻を撃退し、越後(新潟県)を平定していった。
その結果、足利基氏の執事は、(山内)上杉憲顕のみとなり、二人体制だった執事は、上杉家の独占になっていく。

関東管領の足利基氏が急死すると、基氏の遺児足利氏満が、その後を継ぐことになると、関東執事だった(山内)上杉憲顕は、関東管領に就任し、足利氏満は関東公方となる。
元々、足利基氏も政務に長けているわけでは無く、実質(山内)上杉憲顕が関東管領の職務を代行していたわけで、実務に職を合わせた形になった。
まあ、わずか8歳の足利氏満に、その判断ができるわけはなく、実質簒奪なのだろうが。

<上杉禅秀の乱>
中央で足利義満が病没すると、(山内)上杉憲方と、後を継いだ、息子の(宅間)上杉憲孝が、そろって病没。
現役の関東管領が突然病没してしまい、山内上杉家では代わりの関東管領が準備できず、高齢の(犬懸)上杉朝宗が、関東管領として、関東公方を補佐することになった。
足利氏満は40歳で死去。
その子足利満兼も32歳で亡くなると、足利満兼の嫡男、足利持氏が、鎌倉公方に就任。
この頃、本家である山内上杉家と、山内上杉家に取って代わろうとする犬懸上杉家は、ライバル関係になっていた。
足利持氏が関東公方に就任すると、(犬懸)上杉氏憲は、足利持氏の叔父、足利満隆に謀反騒動を引き起こした。
責任を取って、現職の関東管領である(山内)上杉憲定は失脚させられてしまう。
代わって、(犬懸)上杉氏憲が関東管領に就任することになるのだが、現職の関東公方を追い出そうとしている(犬懸)上杉氏憲と、足利持氏がうまくやっていけるはずがなく、(犬懸)上杉氏憲は失脚。
それを幸いに、(犬懸)上杉氏憲(出家して禅秀)は、先の謀反騒動の足利満隆と、その子足利満仲を擁立し、大規模な反乱を起こす事になったのである。

この、(犬懸)上杉禅秀の謀反に、関東周辺の各地の大名、国人の多くは、謀反軍側に参加してしまうことになる。
甲斐(山梨県)の大名武田信満、下総(千葉県北部)の大名千葉兼胤、岩代(福島県)の国人蘆名盛政、結城満朝、常陸(茨城県)国人の大掾満幹、小田持家、下野(栃木県)国人那須資之など、関東の多くの国人が参加していることで、乱の規模がいかに大きかったかがわかる。
結果、新たに就任した(山内)上杉憲基だけでは、全く対処ができず、幕府に鎮圧を依頼することになる。
幕府は、駿河(静岡県東部)の大名今川範政に参軍を要請。
越後(新潟県)の大名(越後守護)上杉憲方(山内上杉憲方の子)、常陸の大名佐竹義人(山内上杉憲定の子)、下野の大名宇都宮持綱、信濃(長野県)の大名小笠原政康によって、討伐軍が組織される。
当初こそ、謀反軍の勢いはすさまじく、討伐軍は押し込まれていたのだが、次第に討伐軍が勢いを盛り返していく。
ついに追いつめられた足利満隆、持仲親子、(犬懸)上杉氏憲(禅秀)は自害。
武田信満は、自国の甲斐まで追い詰められ、後に武田勝頼親子が自害して武田家終焉の地となる、天目山にて自害。
乱は徐々に収束していく。

<永享の乱>
自分が関東公方に就任したというだけで発生した大規模謀反は、足利持氏を酷く傷つけた。
傷心は怒りに変わっていき、上杉禅秀の乱収束後、乱に参加した国人や大名を、足利持氏は、執拗に懲罰していくことになる。
本来なら、仲裁に出るはずの関東管領なのだが、現職の(山内)上杉憲基が急死。
19歳の足利持氏を、8歳の(山内)上杉憲實が補佐するという、どうしようもない体制になってしまう。
この、足利持氏の頻繁な軍事行動を、中央に攻め込む為の準備だと怪しんだ、将軍足利義持は、関東討伐を計画。
この時は、足利持氏が謝罪することで、事なきを得たのだが、関東と中央は、完全に疎遠になってしまう。
問題は、将軍足利義持の死によって、表面化することなる。

足利義持は、嫡男の足利義量が17歳で元服すると、一度退任して、足利義量に将軍職を譲っている。
ところが、足利義量は、将軍就任後、わずか3年で早世。
やむを得ず、足利義持が復職するのだが、こちらも3年でイボ痔の悪化で死去。
その際、足利義持は、次の将軍をくじ引きで選ぶように遺言している。
ところが、この足利義持は、関東公方の足利持氏を、養子にしていたのである。
つまり、本来なら、次期将軍は、足利持氏になるはずだったのである。
結局、くじ引きで選ばれたのは、足利義持の弟の足利義教。
足利義教に対し、足利持氏は、不支持を表明。
関東管領の(山内)上杉憲實は、なんとか二人の関係を修復しようと奔走するのだが、かえって、足利持氏から遠ざけられてしまい、失脚寸前になってしまう体たらく。

足利持氏には賢王丸という嫡男がおり、元服することとなった。
関東公方の慣習として、子供の元服の際、室町将軍から一字を拝領することになっていたのだが、足利義教の室町将軍就任を認めない足利持氏は、この慣習に従わず、義久と名乗らせることになる。
この元服式に、関東管領の(山内)上杉憲實は参加しないことで最後の抗議をした。
これに激怒した関東公方足利持氏は、この行為を謀反として、(山内)上杉憲實の討伐を指示。
この顛末を聞いた室町将軍足利義教は、関東公方足利持氏の謀反であると、討伐を指示。

関東公方の恐怖政治に、関東での支持もイマイチで、関東管領、室町幕府連合軍の前に、足利持氏は敗北を重ね、ついには降伏。
ところが、関東管領の(山内)上杉憲實は、関東公方との関係修復を望んだのだが、室町将軍足利義教は、修復を拒否。
しかも、(山内)上杉憲實にも謀反の嫌疑をかけ始める。
やむを得ず、(山内)上杉憲實は、足利持氏を討伐せざるを得ず、足利持氏、義久親子は、自害。

<結城合戦>
乱の結末に絶望した(山内)上杉憲實は隠居。
その結果、関東公方、関東管領という関東統治機構が機能不全に陥ってしまう。
足利義教は、自分の子足利政知を新たに関東管領に任命する為、関東へ向かわせるのだが、下総の大名結城氏朝が、足利持氏の遺児を保護し、抵抗する。
(山内)上杉憲實が隠居した為、憲實の弟、(上条)上杉清方が、山内上杉家の当主代理として、(扇谷)上杉持朝、(庁鼻和)上杉憲信、(犬懸)上杉持房、教朝兄弟(上杉氏憲(禅秀)の子)、山内上杉家家宰長尾景仲と共に、この反乱を討伐することになる。
乱そのものは、結城氏朝が、籠城戦に出たせいで、抵抗少なく、鎮圧されている。

足利持氏の子は、足利成氏を残し、(山内)上杉憲實の家臣、長尾實景によって殺害されている。
足利成氏も殺害されるところだったのだが、その前に室町将軍足利義教が、赤松満祐に暗殺されたことで、生き延びることができた。

この結城合戦の原因が、関東公方と関東管領の機能不全にあると、関東の大名たちは考えており、幕府に関東公方の復活を嘆願した。
新たに室町将軍に就任した足利義政は、足利持氏の遺児である足利成氏を、関東公方に就任させることにした。
(山内)上杉憲實は、隠居する際、子供たちも全員出家させ、還俗しないよう厳命していたのだが、長男の(山内)上杉憲忠は、還俗し、関東管領に就任してしまっている。

兄弟を討たれた足利成氏と、兄弟を討った関東管領に就任した(山内)上杉憲忠が、うまくいくはずがなく、(山内)上杉憲忠は暗殺されることになってしまう。
再度、関東は大混乱に陥るのである。

by kazwak1 | 2019-06-06 13:02 | 関東  

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