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上杉家・長尾家 その7

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戦国時代といえば、英雄がキラ星のように誕生した時代である。
三好長慶、毛利元就、織田信長、武田信玄、上杉謙信、北條氏康、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津義久、大名としては、この辺りが有名どころだろうか。
昔から、「英雄色を好む」と言われるように、彼らは、正妻の他に、妾を何人も囲っている。
子供を多く設けることも、当主たる人物の務めであるから、当然といえば当然なのだが。
ところが、上記の大名の中で、たった一人、正妻を設けもせず、妾もいないという人物がいる。
それが上杉謙信である。
非常に有名な話であるが、上杉謙信は女性だった可能性がある。
その証拠となるものはいくつもあるので、そうだったかもしれないとしか言いようがない。
では、仮に女性だったとして、なぜ男性にされることになったのかということである。
実は、江戸時代まで、大名の跡継ぎが、男性、それも嫡男である必要は無かった。
例えば、蘆名家では、「れんみつ」という女性が跡継ぎとされているし、古河公方も「氏姫」という女性を跡継ぎにしている。
それが、武家諸法度によって、大名の跡継ぎは男児に限ると決めたのだった。
上杉家は、ただでさえ、関ヶ原の戦いの発端となった敵国の家である。
どんな難癖をつけられるか、わかったものではない。
そこで、武家諸法度が発布された際、上杉謙信の肖像画に、後付けで髭を書き足し、男性であったとしたということなのだとか。



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# by kazwak1 | 2019-10-10 09:18 | 甲信越  

上杉家・長尾家 その6

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関東争乱の中で、異彩を放つ人物というのが、幾人か存在する。
中でも太田資長(道灌)と伊勢宗瑞(北條早雲)が両巨頭だと思う。
それ以外にも、太田道灌の父太田資清(道真)や、(白井)長尾景仲、長尾能景といった、S級の武将もいる。
その中で、英雄になりそこねた人物がいる。
それが(白井)長尾景春。
父は英雄(白井)長尾景仲の子長尾景信。母は越後(新潟県)の雄(府中)長尾頼景の娘。
父(白井)長尾景信は、その父景仲死後、(山内)上杉家の家宰として、主家を支えていた。
元服した長尾景春は、父の配下の将として、享徳の乱で関東公方足利成氏軍と戦った。
その中で長尾景春は、主家上杉家の没落っぷりを感じてしまったのだろう。
父長尾景信死後、(山内)上杉顕定は、(白井)長尾家の発言力を削ごうと、家宰に長尾景春では無く、(総社)長尾忠景を任命した。
それによって、上杉家中で、長尾景春を次期家宰と思って付き従っていた豪族が、次々と離れていった。
斜陽の(山内)上杉家に、思い知らせてやろう、そんな私怨から始まった謀反騒動は、関東公方の支援もあり、一気に大勢力となり、主家(山内)上杉家と同等にまで拡大。
だが、残念ながら、これを(扇谷)上杉家勢力拡大のチャンスと見た、戦闘の天才太田道灌によって、乱は鎮圧されてしまう。
乱に失敗した長尾景春は、関東公方足利成氏の元に逃れる。
長享の乱が発生すると、(扇谷)上杉家に仕官し、長期にわたり(扇谷)上杉家主軍として奮戦したものの、(扇谷)上杉家は降伏。
その後、(山内)上杉家に仕官。
永正の乱では(山内)上杉顕定が(府中)長尾為景を討つため、越後に出兵したのを見計らい、謀反し本拠白井城を奪還。
だが、狂犬のような長尾景春を、かつての部下は見限ってしまっており、息子の長尾景英を支持。
長尾景英によって、本拠の白井城を奪われ、追放される。
その後は、各地を転々と亡命し、最後は白井城に迎えられ亡くなっている。

同世代の伊勢宗瑞は、梟雄長尾景春を「智勇兼備の勇将」と評しているが、後代から見れば、祖父、父の膨大な遺産をたった1代で食いつぶした、中途半端な智勇の石潰しという感じだろうか。


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# by kazwak1 | 2019-09-01 13:22 | 関東  

上杉家・長尾家 その5

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30年も続いた享徳の乱が終焉すると、いよいよ、時代は戦国時代に突入していく。
戦国時代黎明期といえば、下剋上。
中でも、斎藤道三と、北條早雲が双璧だと思う。
斎藤道三は一介の油売りから、美濃一国の大名に、北條早雲は、素性も知れぬ素浪人が、関東一円を支配する大大名に、それぞれ成り上がった物語とされていた。
最近、どちらも、どうやら趣が異なってきている。
斎藤道三は、最近では、親子2代の業績という説が有力であるらしい。

北條早雲(伊勢宗瑞)は、素性の知れぬ素浪人が、今川家のお家騒動、関東争乱に乗じて、関東一円に勢力拡大していったと言われている。
ただ、どうやら素性の知れぬ素浪人ではなく、幕府の高級官僚だった伊勢盛定の子で、幕府にとって重要な今川家のお家騒動を収める為に、将軍の命で下向した官僚だったらしい。
何故彼だったかといえば、姉が今川家の先代当主今川義忠の正妻だった為。
一般に北條早雲と呼ばれているが、本名は伊勢盛時で、実は、彼自身は、1度も北條姓を名乗っていなかったりする。

そんな伊勢盛時が、関東争乱に登場することで、関東争乱は第2幕を終えることになる。


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# by kazwak1 | 2019-08-03 12:11 | 関東  

上杉家・長尾家 その4

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今回の話から、関東争乱は、第2章に突入することになる。
これまでは、関東公方と関東管領、すなわち、足利氏と上杉氏による、お山の大将争いがメインだった。
そのしょうもない争いに、室町将軍が口を挿み、関東各地の豪族と、周囲の大名が参戦した。

この第2章からは、
関東公方や、関東管領だけでは無く、分家の扇谷上杉家や、上杉家の部下達が、脚光を浴びるようになってくる。
下剋上の発端となる応仁の乱が1467年で、その中から、朝倉孝景や、三好之長のような、守護を支えるNo2が、頭角を現してきたように、10年早く、関東でNo2が頭角を現してくる。
上杉家から、頭角を現してきたのが、山内上杉家の家宰長尾家と扇谷上杉家の家宰太田家である。

中でも、太田資長(道灌)が、知名度としては抜群だろう。
太田道灌といえば、山手線日暮里駅前に銅像が立っている為、どんな人かは知らなくても、名前だけは知っている人がそれなりにいるだろう。
1流の政治家であり、1流の歌人であり、超1流の武人という、マルチな才能の持ち主である。
そんな道灌だが、元々和歌に興味があったわけではない。

ある時、突然の雨に降られた道灌は、蓑を借りようと、一件の農家に立ち寄った。
その農家の娘は、蓑ではなく、山吹の花を差出し、戸を閉じた。
道灌は意味が解らず、家臣に変な体験をしたと話した。
古今和歌集に「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という和歌があり、その「山吹の実の(蓑)」「なきぞ悲しき」から、お貸しできる蓑が無くて申し訳ないという意味だったと思われますと、家臣から解説を受けた。
その娘の知的な行動に感銘を受けた道灌は、その後、和歌を猛勉強し、歌人として一流の人物になったということである。

まあ、伝説の人物なので、眉唾なエピソードではあるのだが。


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# by kazwak1 | 2019-07-05 16:17 | 関東  

上杉家・長尾家 その3

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関東争乱は、非常にわかりにくい。
それは関係者が異常に多いのが原因と思われる。
関東公方の影響範囲を列挙すると、
陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県)、出羽(秋田県、山形県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)、上野(群馬県)、越後(新潟県)、下総(千葉県北部)上総(千葉県中部)、安房(千葉県南部)武蔵(埼玉県、東京都)相模(神奈川県)、甲斐(山梨県)、伊豆(静岡県南東部)
後に、陸奥(陸奥、陸前、陸中、陸後、岩城、岩代)と出羽(羽前、羽後)には、足利満氏の子、足利満直が篠川公方(郡山市)、足利満貞が稲村公方(現須賀川市)として、それぞれ岩代(福島県)に赴任した事で、影響から脱するのだが、それでも広大な版図である。
解りやすく言えば、現在の東北地方と、首都圏に、新潟県が、その版図だったわけである。

それぞれの地に、守護、守護代、国人、土豪が存在している。
その広大な地の名目上のトップが、関東公方(鎌倉公方)であり、その公方を補佐する、関東の大名が上杉家だった。
例えば、上野は、上杉家の本家扱いだった山内上杉家が、関東管領で、なおかつ守護として、総支配者として君臨したのだが、その山内上杉家を補佐する守護代として、長尾家がおり、国人として、新田家の残党である横瀬家、岩松家や、長野家などがいた。
それぞれの国がそんな状況だった。
誰かが、何かしらの企みをすると、膨大な数の家が、その企みに巻き込まれ、それぞれどちらに着くかの選択を迫られた。
当然、上下一心というわけにはいかず、モザイク状に反乱が発生し、乱は関東一円に広がってしまう。

その状況が、最終的に、北條早雲が関東公方を機能不全にするまで続いたのである。


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# by kazwak1 | 2019-06-06 13:02 | 関東